うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

泉州と堺の糸へんと、【躁的防衛】


https://www.iichi.com/shop/itohen_osaka
 一仕事終わり、先程帰宅して、メールチェックしていたら、ジャパンデザインネットさんからの情報が目に入り、開いてみました。
泉州という、自分が生まれた地域の名前が出ていたので(笑)迷わず開きました。
 下記の晒・手ぬぐいのほとんどが、堺から仕入れているなんて初めて知りました。包丁だけが有名だと思っていましたので、びっくりしました。
自分が生まれた和泉市は、ガラス工芸が盛んでした。大阪の伝統工芸は、みなさん知りませんが(笑)ガラス工芸です。
通学路に、吹きガラスの工房があり、毎日、職人さんの技を目の当たりにしていました。親戚もトンボ玉を作っていたので、色んな色のガラスの生地が沢山あったのを覚えています。今では高価なトンボ玉を、ビー玉代わりに遊んでいたのも、今では良い思い出ですね。


−堺という産地の特徴は何ですか?

神崎恵美子さん(以下、神崎):織から染めまで一気にできるのが、ここの産地の特徴です。東京や京都にも染め工場はたくさんありますが、実は手ぬぐいはほとんど堺から晒(さらし:不純物をとりのぞいて漂白された、染める前の生地)を取り寄せているくらい「和晒」の産地でもあります。日本の手ぬぐいは小幅と呼ばれる日本独自のサイズなんです。海外で真似できない独自のつくり方なので、蔓延しないんです。ある意味すきま産業なので、手ぬぐい産業は日本に残れているのかもしれません。


 素敵な手ぬぐいですね! 価格もお手頃なので、機会があれば是非購入したいと思いました!




https://www.japandesign.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2018/01/20171127_IMG_8238_NK.jpg
 hiraliを手がけたのは、大阪・堺市にある竹野染工株式会社。全国で唯一、手ぬぐいの両面染色技術を持っています。昭和36年の創業以来、ロール捺染という技術を使って手ぬぐいや浴衣、寝間着、布おむつを生産してきました。現在3代目の寺田尚志さんと、hiraliのブランディングを担当している神崎恵美子さんに、この商品が生まれる背景や堺という産地、新しい手ぬぐいのブランドについてをお聞きしました。




 昨日から、途中で読むのをやめた(笑)ウィニコットの本に入りました。
精神分析の本を何冊か読ませて頂き、大枠は分かったと、偉そうに思っていたら、打ちのめされました(笑)
 今日も現場で、躁的防衛的な表現をされた方がおられたようですが、渥美での入浴介助から戻った時には、大分落ち着かれていて、少し話をさせて頂くと、直ぐに抑うつポジションに入ることが出来ていたので、安心して帰宅させて頂きました。
 日も長くなってきたので、精神に障がいをお持ちの方々も、少しずつ落ち着いてきています。
身体に障がいをお持ちの方々の施設で働かせて頂いていた時に、集団に入れない方に対して、あの方は、障がいを自分で受容できていないなんて言っている職員がいましたが、自分も群れるのが嫌いなので、ほっといてくれよ(笑)と自分なら思うなと思いました。それも神田橋先生が言われる、文字文化有害論なのでしょうね。
 TEACCHやPECSも、佐々木正美先生が言われるように、臨床心理学を知らないと、正しく文字文化有害論的なことになっていますね......。行動療法(TEACCHやPECSやABA等)は、速効性があり、効果が出たような気にもなりますが、必要維持量を手を変え品を変え与え続けないといけないし、それで改善する方は、実はそんなに重度ではなかったりします。それプラス、臨床心理学の勉強もしないと、根本的な改善にはならない方々もいるのも事実です。それは決して簡単ではありませんが、その分、勉強する値打ちもありますね。

 下記は、北山先生が訳されたのか?映画の一場面の様な感じにさせてくれました。

『延々放送しているラジオ放送のようなものは、どうであろう?消えることのない騒音と消されることのない灯りに満ちたロンドンのような街で、生活することはどうか?それらのどちらも、現実を通じて内なる死に対する安心確保reassuranceと、そして、正常であり得るような躁的防衛の使用を例証している。』色即是空、空即是色という言葉が、頭の中でリフレインしています.......。
 下記の文章は、俗にいう、ウィニコットらしいと言われる文章の様な気がします。はっきり言って、何が言いたいのか?よくわからない的な(笑)



児童分析から精神分析
D.Wウィニコット 著
北山修 監訳
ウィニコット臨床論文集2




CHAPTER 1
躁的防衛(1935)
〜万能感に満ちた操作、制御、脱価値化などを減らすことを正常性について、つまり日常生活で使われるような幾分かの躁的防衛に、結びつけることは可能であるに違いない。たとえば、ある人がミュージックホールにいて、生き生きと踊るよう訓練を受けたダンサーたちが舞台に現れるとする。ここには原後継があるということも、規律に対するマゾヒスティックな服従があるということも、超自我に対する挑戦があると言うこともできる。そして遅かれ早かれ付け加えることになるのは、ここには生命があるということである。その実演における重要点とは、死んでいることの否定、つまり抑うつ的な“内なる死”という考えに対する防衛であり、性愛化sexualizationというものは二次的なものである、ということではないだろうか。 延々放送しているラジオ放送のようなものは、どうであろう?消えることのない騒音と消されることのない灯りに満ちたロンドンのような街で、生活することはどうか?それらのどちらも、現実を通じて内なる死に対する安心確保reassuranceと、そして、正常であり得るような躁的防衛の使用を例証している。〜


〜躁的防衛では意思内なる現実における緊張を減じるために、外的対象との関係が使われる。しかし、個人が対象愛のための自分自身の能力を信じることができないため、死んでいることを否定する生き生きとしているという感覚を充分に信じていないことが、躁的防衛には特徴的である。というのも、うまく成し遂げることmaking good[償うことの意もありー訳者]は、破壊が認められたときにのみ現実になるからである。
 今日、躁的防衛と呼ばれているものにつけられる術語にわれわれが賛同しようとする際、難点となる部分は、直接躁的防衛自体の性質に関わっている、ということなのかもしれない。“抑うつ”という語はごく日常的会話で使われるだけでなく、その語の意味がきわめて正確に使われているということに気づかざるをえない。ここに抑うつに関して行われている内省を、見ることができるのではないか?そして、躁的防衛のための日常語がないという事実は、臨床的にそれに伴う自己批判の欠如に結びついているのだろう。まさに躁的防衛そのものの性質のために、その防衛が働いている時は、内省を通して直接それを知ろうとすることができないと思うべきである。
われわれが抑うつ的だと感じるのは、まさに、われわれが抑うつ的な時である。ところが、われわれが抑うつに対して放防衛しているかのように少しも感じないようなら、まさにそれはわれわれが躁的防衛を行っているときなのである。そんな時われわれはないかいつもよう意気揚々として、忙しく、興奮していて、ユーモアたっぷり、博識で、“生命感に満ちている”と感じる傾向があり、それと同時に対して真面目なこと、そして憎しみ、破壊、殺害の恐ろしさなどにいつもより関心を示さないのである。 以前の精神分析では、ここで私が(フロイトに従って)“内なる現実”と呼んでいる最も深い無意識的空想にまで達したことがなかった、と私は主張しようとは思わない。精神分析の技法を学ぶなかでわれわれは、転移の中で解釈することを教えられた。転移の充分な分析が、内なる現実の分析をもたらすのである。けれども内なる現実の理解は、まさにのも明確な理解に必要なのである。