うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、サリヴァンの新装版と、いのちはモビールと、【一なるものは、自分自身の身体として生きていくこと、そして自分自身であることや、自己主張、自己声明ができるために、欠くべからざるものなのです。】


 今日の散歩は、朝は初立池で、お昼からは、芦が池に行って来ました!
全行程で、約13,000歩走りました(笑)さすがの、おっちゃんでも、少しばてました(笑)
 今夜は良く眠れそうですね!



 昨日、ちらっと寄った、本屋さんに、サリヴァンの本があったので見てみると、新装版が去年出ていました。
良い本は、どんどん再版してほしいですね!

 こちらの本は、立ち読みしていたら、良かったので購入する予定です。
神田橋先生つながりで、来たら直ぐに読みたいと思っています。



 アップは、昨日読んだ箇所です。今日も早めに出て、ファミマで本を読みましたが。
この本は、どこを切っても?本当に良い本です。



 〜芸術家と彼のファンとの間の接触や交流は、両者の、この無意識的な妄想の存在と、そこへの退行、に依っています。芸術家にとって、彼の作品は、彼の仕事であり、感情であり、彼自身なのです。聴衆や観客にとっては、聞こえるものや、見えるものは、自分の感情であり、反応であり、自分自身なのです。そのため両者が重なり合う領域では、各々は、精神的には芸術作品であり、そしてそれ以外のもの、でもあるのです。その他に、わたくしが、原初なる一の正常な表現、と見なしたいものには、次のものがあります。学校の制服の供給、国家の象徴としての国旗の存在、そして園芸家たちが、お互いに、植物を分け与える行動です。そうすることで、お互いの庭に、同じ植物が生えることになります。しかし、それでも本質的には、それぞれの庭は、異なり、個性的なままなのです。 原初なる一が確立されなかった場合、幼児期においてであろうと、分析治療においてであろうと、そこには破滅不安が続くことになります。そして一なるものが捜し求められ、そして避けられます。イデオロギー、体系的な宗教、秘密結社二人精神病など、の中においてです。 集団のメンバー間の関係は、個別性と相違とを否認しようとするものですが、メンバーと指導者との関係は、個別性と相違とを主張するものです。こうした集団は、自己保存、つまり生存にもっぱら関心をそそぎますが、その生存の代償は、個性の喪失です。さまざまな非行集団の主なメンバーは、自分たちの存在が不安定で、現実感がなく、唯一確かなことは、破滅だけだ、と考えている少年たちです。 体系的な宗教は、孤立した人にとって確実な運命である死、に対して、ある種の防衛を提供します。そうした防衛を用いながら、自分の個性を十分に埋もれさせなかった人たちは、神秘主義や汎神論などを求め、「全なる他者」との「神秘的結合」の中で、同一性を失おうとし、コスモスの生と融合した生の中に、自己の生存の道を見いだそうとするのです。 Freudは、Robertson Smith(『血族と結婚』、1885)を引用しています。「氏族感情の根底にある同一視は、共通の物を認識すること、に基づいているので、そのため、一緒に食事をすることによってもたらされるかもしれない」と。ここでも再び、わたくしたちは、物を、具体的事象としての身体体験を、認めるのです。聖餐というキリスト教の考えは、パンとワインという具体的な象徴に基づいており、死後の復活、つまり肉体の生存の方法を与えるもの、と信じられています。 わたくしは、こうしたことが、口愛的な種類の関係、という観点から理解できることは分かっていますが、皆さんに入るわたくしが最初に述べた二つの点を思い出してほしいのです。 (1)分析者との合体、同一性。確立しようとする患者の努力、そして、(2)そうする患者には、身体的な出来事が重要であることです。




 要約すると、
個人の内部では、生存と、関係を作れる対象を発見する能力とともに一なるものの存在にかかっています。その一なるものは、母親−幼児(あるいは分析者−被分析者)というある単位から派生します。一なるものから、分化、再同化、あるいは統合、のリズムが生じてきます。一なるものは「中心部の静けさ」をもたらし、それによって運動と知覚とが可能になります。一なるものは、自分自身の身体として生きていくこと、そして自分自身であることや、自己主張、自己声明ができるために、欠くべからざるものなのです。