うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昨日のカーグの作品と、【自己愛は、定義上では主体であり、かつ対象でもある自己に関係しているのです。】


昨日の、カーグの作品の一部を発見したので、アップさせて頂きました。
絵馬に時間が掛ったので、絵馬だけの方が多かった様でした。
 まずは、おかもっちゃんです。今回は、トローンボーンを描かれた様子。


 あまのっちは、絵馬は拒否?され(笑)いつものようにクレヨンを一箱使い切って、画用紙5枚の表裏に作業されていました。
お母さんが、クレヨンの並び方を変えたそうで、いつもと違う感じになったのでは?とのことですが、おっちゃんには、いつもとの違いが分からず......。
 お母さんだから分かるのでしょうか?いつも通り素敵ですが!





 本は少し読ませて頂き、いつもよりは進みましたが、土曜日の続きも大切なことが書いてあったので、アップさせて頂きました。
まずは身体記憶という言葉をずっと引きずっていますが、本当にそうかもしれないなと思ってしまう毎日です。人間、何か不安定になると、自分が心地よかった時を肌で記憶していて、その状況を思い出したり(おそらくきちんと発達が出来ている場合。最早期まで退行、極めつけは胎児の状態まで?)してしまうのでしょうね。
 それは、障がいがあろうがなかろうが同じように思えます。
以前は、そうでなかったのに....。という場合に(精神や知的に障がいをお持ちの方々が)は、近い所に案外その身体記憶があるのかも知れませんね。そうならば、早く見つけてあげる事が、最善策のように思えます。身体記憶を消すには、それより自分にとって良い状態を身体記憶に残せるように(決して甘いだけではなく)支援させて頂くのが自分たちの仕事ではないだろうかとこの本を読みだしてから思います。


 今日は、学齢児さんの入浴介助と夜勤なので、早めにアップさせて頂きました。


〜最初の認識がもつこの特質を知って、わたくしは次のことを理解するようになりました。つまり自分わたくしがこれまで言及している身体的な出来事は、出産前および出生後の最も早期の同化されていなかった身体記憶、に関係しているということです。わたくしには、次のように思われます。こうした患者たちにおいては、そうした最早期の身体記憶と後期の経験との間に断裂があり、しかもこの断裂が修復されないと、生存が当然のことにならないのだ、と。修復がなされたときにはじめて、いくつかの他の過程が後に続くことができるのです。その一つは、快感原則の発達です。というのは、快感は現実ではありませんし、生存を前提にしてしか意味を持たなかったからです。 わたくしは、粘土の塊についてお話しすることで、自分の意図するところを明らかにしたいと思います。 ひと塊の粘土は均質です。塊の形は、外からは知覚できますが内からはできません。外の世界では、塊は、現実に他の何かの形をとりますが、かといってそれらの対象に近づいている訳ではありません。粘土の内部は、粘土以外、何物でもありません。一片の粘土は、それをこぶ状にしたり、摘み取ったり、他の形に変形させたりできます。そしてまた再びくっつけて元の塊に戻すこともできます。しかし、新しい形や性質を保つならば、元の塊とは区別されます。これが分化と統合の、そして創造の始まりです。粘土の原初なる一は、まず破壊され、それから復元されるのです。つまり粘土には、一貫性と安定性があり、新しい出発点もあるのです。しかし、粘土の本質(ギリシャ語が本来の意味における、その性質Physis)は不変のままなのです。 わたくしが、成人の分析治療に現れる、未分化状態について述べているとき、わたくしは、そうした「ひと塊の粘土」の状態のことをいっているのです。その状態にまで、患者は退行する必要があったのです。それは、新しい分化と、新しい経験の同化とを通して、自分の原初なる一を発見し、拡大して、前進へ転ずるためなのです(この未分化状態は、もちろん、抑圧された記憶や思考の相起に対して、防衛的に利用されることがあります。しかしその点は、ここでのわたくしの論点とは別の次元です)。 粘土の塊に例えるのは、あまりにもこじつけすぎかもしれませんが、例えることで、わたくしは次のことを示したいのです。つまり、非常に早期の状態というのは、精神的に、患者−幼児は、いわば、ひと塊の粘土であり、そしてずっと後期に状態というのは、そこから内部・外部、つまり「自分・自分でない」という区別が発達しはじめる状態であり、この二つの状態は異なっている、ということなのです。患者は、自分の内部がすべて、均質の粘土のような物質で満たされている、と信じるかもしれません。彼は、想像のうえでは、その物質を自分の外部に移動でき、全世界をその物質で満たせるのです。この早期の状態では、彼自身しか存在していないのです。これは、自体愛の一元論状態です。もっと正確には、おそらく「汎自閉状態」です。つまり、自己しか存在していない状態、のことなのです。 投影、取り入れ、同一化、主体、あるいは対象のような概念は、全面的に未分化なものにとっては、意味をもちえないのです、その外側から考える場合、は別ですが。分化は、運動、外的世界との接触(外界の発見)、そして塊への同化、つまり統合によって生じます。この時点で、「自体愛」が、自己愛へと変化しはじめるかもしれません。自己愛は、定義上では主体であり、かつ対象でもある自己に関係しているのです。 わたくしがここで考えているのは、Freudの論文、「ナルシシズム入門」(1914)の一節です。「わたくしたいは、自我に比較しうるような単一体が、最初から、個人の中に存在しているのではない、と仮定しなければなりません。自我は、発達させられなければならないのです。他方、自体愛的な本能は、まさに最初から存在しています。ですから、自体愛に、何か――新しい精神的活動――が、付け加えられなければならないのです。その結果、自己愛が生じるのです」。 
わたくしの考えでは、この「新しい精神的活動」は、原初の、未分化状態からの分化、ついで統合、つまり分化したものを同化して元の状態へ戻るというリズミックな分化過程の始まりなのです。この過程は、生来的なものであり、この過程が障害されると、自己愛は発達できず、自体愛(あるいは「汎自閉状態」)にとどまり、自我発達はひどく障害され、個人の精神生活に重大な危険をもたらすことになります。 わたくしは繰り返し述べたいのですが、客観的な現実からみると、この未分化な、「汎自閉状態」は、妄想的な状態ですし、分析治療で覆いを取られるまでは、転移精神病の中に無意識のまま留まっているのです。現実に、幼児であるとか、全面的に未分化、という患者はいません。この妄想は、患者には真実として受け取られるのですが、分析者には共有されないのです(不幸にして分析者が逆転移精神病のようなものを起こしている、のでないのなら)。 そして、次のようになるのです。つまり、患者の妄想の中では、患者と分析者は一つのもので、分けられないし、同一で、連続しており、この単一体の内部でも、また単一体と外部世界にあるあらゆるものとの間でも、分化はないのです。