うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

常識とは........と、【ついでながら、わたくしたちは、しばしば、このような非常に依存的な人々との長期のつきあいか、多くのことを学べますし、それは他の人たちを治療するうえで有益です。】


 少々頭がお疲れ気味だったので、お笑いの画像を見ていたら、ちょっと笑うに笑えないものが出て来ました(笑)
でも、言い得てそうな感じもしますが......。
 超自我というのは、あくまで主観なのでは?と学生時代に先生に反抗的になっていた時に、常々感じていました(生意気な奴でしたw)。
道徳の時間が問題になっていますが、それも誰かの主観でしかないのなら、いっそのこと、精神分析の概念(哲学か?)を子供にも分かるようにして、みんなで読み合わせ会をすれば、人間の根本的な所に触れるので、いじめなんか激減するのでは?と単純に考えてしまいました(笑)精神分析万能だとは、決して思っていませんので。
 体育の時間も、変に競争心を煽るような球技等をするより、身体の仕組みを教えて、どうしたら無理なく体を動かせるのかを、せめて義務教育の間だけでもやって頂ければ(アレクサンダー・テクニークや野口体操などを分かり易く)、高齢になっても、足腰が丈夫になりそうな気もしますが、めちゃくちゃ個人的な見解ですね(笑)
 適度な有酸素運動も必要で、自分も極力車には乗らず(個人的に持っていませんがw)、自転車や徒歩で移動するようにしてやっています。
道元曰く、日常的に必要な事をしていれば、運動などしなくてもいい! 現代はそうはいかないのかもしれませんが、福祉の現場で真剣に働けば、日に10,000歩くらいは平気でいっています(笑)

 頭の中で18歳までの自分を辿っていたら、それより少し前に見ていた画像のようになっていました(笑)
精神分析的な感じがしてしまいましたが......。





 今日は休みだったので、本は、事務所に寄ったついでに、マックで読みました。
後は対談の章だけになりましたが、この章も本当に勉強になります。
 相性というところに触れていましたが、現場でもこれはあると思います。無理に合わない人や施設に行く必要はないと思われます。
本当に信頼できる方とは、この様に自分の事も公平に見る事ができる方だとも思いました。



第12章 分析治療における種々の過ちと失敗:振り返ってみて
わたくしたちは、だれも、過ちを犯すし、失敗を体験しています。それらはわたくしたちに、痛みをもたらします。患者にとっても同じです。それゆえ、わたくしたちは、過ちや失敗の話を避けようとします。 最近、わたくしは自分自身の仕事を振り返ってみて、わたくしの犯した失敗を見つめ、どうしてそうした失敗が生じたのかですそれらにもっとも共通していたであろう原因はなんだったのか、を考察する時だと感じました。わたくしは、それらの失敗を、思い出した順にリストアップしていくつもりですが、各項目は独立しているわけではありません。それらはしばしば重複していますし、どの症例一つをとっても、一つ以上の要因がからみあって失敗に関連しています。 つけ加えなければならないのですが、わたくしはここでは、わたくしが「維持療法」と呼んだ方法がないとやっていけないのがわかった多くの患者たちとについては話しません。彼らは、解消されえない幼児的依存状態、に固着しているのです。彼らに対して、わたくしたちは、以下の決定をしなければならないことがあります。すなわち、わたくしたちは、彼らに対して責任を負ってきている、という理由で「必要維持量」を与え続けるか、あるいは、わたくしたちの技術を、もっと有効に利用できる患者のために取っておくか、です。後者の決定は、こうした患者たちにとって彼らのニーズを満たすために、他の何らかの方法を見つける、ということを意味します。そしては容易なことではありません。しかし、今では、より重篤な障害の患者の多くが治療を受けているので、いつまでも依存している患者の中にも、成長する人が多数いるようです。もっとも、彼らに対する施設は、同程度には増加してはいません。 ついでながら、わたくしたちは、しばしば、このような非常に依存的な人々との長期のつきあいか、多くのことを学べますし、それは他の人たちを治療するうえで有益です。





不適切な患者選択
 これは第一に、誤った診断評価の問題であることがあります。診断はいつも容易であるとは限りません。患者が最初は、分析が進むにつれて明らかになってくるのは、とても異なった様子を見せることがあるのです。医学において「臨床のセンス」として知られているものが出て患者予定者を評価する上で重要な役割を果たします。何らかの理由で、自分の臨床のセンスあるいは直感、に逆らって進めると、トラブルに陥り勝ちです。







相性が悪い
 このことを当初に認識するのは初めていつも容易だとは言えません。嫌いという感情があるからといって、必ずしもある患者の分析を引き受けるのをこばむわけではありません。この感情の下についた無意識的な好きという感情、があることもよくありますし、また、分析が進むにつれ、尊敬、関心、好き、が育つこともあります。
 しかし正反対のことが生じる場合もあります。最初の嫌いが続き、かつ大きくなることもあり、あるいは最初の好きが薄らいでいくこともあります。 この場合、相性の悪い患者は他の誰かに分析されてもうまくいかない、という意味ではありません。わたくしは、同僚たちに紹介された患者の分析を引き受けて行ったことがありますし、わたくしが失敗した患者で、別の分析家とはうまくいった患者は一人に限りません。その分析家と彼の間の方がもっと相性が良かったのです。