うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

テレキャスターの修理と、【子どもが苦しんでいるときの負担が大人の場合より大きいのは、子どもの自我が弱いばかりでなく分析家の親としての感情に訴えるからである。】


 テレキャスターの修理が出来たと、朝にメールがきました。
一番の問題点のナットとフレット交換。

 すっかり綺麗になり、写真を見ているだけで、良い音が出そうです。



 これで5年くらいは、きちんとした音で弾けそうです!
明日は、休みですが蒲郡に絵の搬入に行くので、浜松までは行けませんが、来週に貰いに行きたいと思っています。



 本は、今日は休みでしたが、遅番の職員さんが足を悪くされたので、代わりに入ることになったり、事務仕事をしなければいけなくなったりで、事務所に行って書類をもらって来て、ジムが開くまでファミマで読みました。
遅番が終わって、入浴介助や、明日の年末チャリティーのバザー物品の準備などで一汗かいたので、帰りもジムに行き(笑)一汗かいてからお風呂に入って帰って来ました。

 昨日の続くですが、症例を抜かしているので、分かりにくいですが、それでも大事な事が書かれていたのでアップしました。

『少年の場合も初めから非言語的な行動を通して苦悩を伝えていた。分析家は不安になって分析の手順を説明した、このような状況では説明は保証と同じで、子どもとはまったくふれあえない。』は、ラカンが言った『一瞬でもたじろいだら、被分析者になるのは分析家だ!』を思い出しました。初めての方と接する時には、徐々にお互いがお互いを少しずつ理解できるようにしないといけないのは、障がいの有無は関係ないと思われます。呑み込まれてしまう職員が多すぎますね.......。
続く『彼が紙をちらっと見た後、分析家は描くように誘った。絵が描かれ物語の語るさまは平板で活気がなかったが、物語自体は生き生きとしていて不安に満ちているようだった。』は、最初に働いた施設で、喋れるんだったら、言葉で話して!と利用者さんに話していた職員を思い出しました。その方は、きちんとメモ書きで、意思表示をしたがっているのに、職員のデマンドを押し付けていたので、自分はメモ書きで意思の疎通をやらせて頂いていました。自分は言語障害があるので、苦痛が分かっただけかもしれませんが......。

『このような状況で、子どもの分析家が助けをじかに求める子どもの無言の訴えにあらがうのはたいそう難しい。』は、分かりますが、ダメな事はダメだと、はっきり・分かり易く伝える大事さも現場で感じます。重度の方ほど(強度行動障害の方ほど)それを切に感じます。




〜小さな女の子とのセッションでは、とてもまばらに見えた素材は解釈の結論、いかにより豊かに詳しくなったかがわかる。一方、少年の場合、詳しくとも情緒的に乏しい素材が解釈によって感情やふれあいでみなぎるようになった。どちらの場合も解釈はもともと、分析家の中への子どもの無意識からの前言語的投影から起こった状況への分析家の直観的な反応に基づいていた。小さな女の子の場合、眠り込んで落ちそうになることは、分析家の中に、彼女の安全性への著しい不安――分析家は実際ほんものを枕を与えることでこれに対処した――を投影する効果があった。彼女がわざと枕を避けたので、彼女を守れないのではないかという無力感が分析家の中で大きくなった。これら2種の投影が同時に働いていた:「私はこの子を助けきれない;本当に彼女を傷つけてしまう。私には正しい枕がないから」である。ほんもののおっぱいのない男性の分析家にがっかりしているという解釈の後でやっと彼女はなかった別れ際に分析家とふれあったし、次の日豊かな素材を生み、兄との性的な関わり合いを分析家とともに繰り返すのではないかと、不安を表した。 少年の場合も初めから非言語的な行動を通して苦悩を伝えていた。分析家は不安になって分析の手順を説明した、このような状況では説明は保証と同じで、子どもとはまったくふれあえない。彼が紙をちらっと見た後、分析家は描くように誘った。絵が描かれ物語の語るさまは平板で活気がなかったが、物語自体は生き生きとしていて不安に満ちているようだった。分析家は、精神分析の初めだけでなく物語を活気なく単調に話すそのやり方からも、彼が実際の中に投影している望みのなさがエディプス水準よりも原初的な水準からきていると感じたので彼女は、クリスマスツリーが実際彼の対象を魔法の力をもった理想的な良いものとひどく迫害的なものとに分割する、はるかに深い水準の過程を表していると応じた。彼女は魔女と妖精の原初的な内的世界とふれあうことができ、こうして万能的なよい対象を望む分割排除された気持ちに手が届いた。 このように分析家は、どちらの子どもとも、投影された苦悩をとり入れたことから生じた深みからの導きに従いながら、より深い層へと解釈をすすめることができた。小さな女の子の場合には、その上で眠ったり吸ったりするほんもののおっぱいの期待に関して。また、男の子の場合には、彼を迫害者から守る妖精の希望に関して。 子どもが自発的にもたらす素材を取り扱ったり具体的な投影にもちこたえる能力の他に、非分析的に押しつけることなく子どもが苦痛を体験するのにまかせることの難しさもある。子どもが苦しんでいるときの負担が大人の場合より大きいのは、子どもの自我が弱いばかりでなく分析家の親としての感情に訴えるからである。子どもが迫害的になっていたり泣いていたりすると痛々しいが、いい子になろうとか償おうとしているのに内的葛藤のためにそれができない場合など特にそうである。ある小さな女の子は、分析の最初の長期休暇の後に、オモチャの人形をほとんど壊してしまった。長期休暇についての気持ちをいくらかワーク・スルーした後、彼女は壊してしまったお母さん人形の頭と腕を修理することにした。彼女は細工用の粘土で何とか頭をくっつけたが、腕はとっても難しく何度も落っこちた。彼女はたいそう辛そうであったが、長いあいだ根気強く続けた。とうとう彼女は人形に「この子は疲れているの」と言い、あきらめてしまった。このような状況で、子どもの分析家が助けをじかに求める子どもの無言の訴えにあらがうのはたいそう難しい。