うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

まんじりねこさんと、今日の日中と、【人間の心の弱さは、表面的な観察で認められる以上に、精神病的な考え方、弱さに近いようである。】


 朝、ねこさんが、起きているのか?寝ているのか?分からないような感じで、これがまんじりというものなのかな?と思い、しばらく見ていました。
自分もこんな風に、息抜きができたら、もう少し生きやすくなるのかな?と羨ましくもありました。

 今日の日中は賑やかだったので、男性職員は男子と浜松に行ったり、すろーじゃむの湯に行ったりしました。


 本は今日も早く出て、ファミマで読みました。忙しい時ほど、絶対アップしてやろうと(笑)燃えてしまいます。(笑)
まあ、みなさん暇だと思っているでしょうね(笑)。
『人生観要素を研究している科学者は、患者、示す状況と類似の状況の中に自分を見いだすものだ。……』は、本当にそう思います。 職員が出来もしない事を、利用者さんに押し付けていたり、されたらいやなことをやっていたり.......。
 取り敢えず、自分がされて嫌な事は、しないようにしようと思いますが、一番見えないのが自分ですね......。


〜ビオン(1962)は精神病的患者について以下のように記述している。
「アルファ機能を破壊することによって、生きている対象との対象を回避しようと試みると、その人格は次のようなロボット的でない人格自体のいかなる側面とも関係をもち得ないことになってしまう」。さらに彼は述べている。「人生観要素を研究している科学者は、患者、示す状況と類似の状況の中に自分を見いだすものだ。……人間の心の複雑さに直面した分析家は、すでに認められた科学的方法に対してさえも、従うには慎重でなければならない。人間の心の弱さは、表面的な観察で認められる以上に、精神病的な考え方、弱さに近いようである」

 私たち自身の体験の重さに触れ合い続けるとともに、技法の持つ深い価値に忠実であることに関わり続けるというこの二重の領域に忠実私たちの仕事における大きな困難のひとつがある。このことが不可能さや私たちの努力の寝相が作り出される。この問題はたとえば、解釈か対応かという論争にもあてはまると思う。その論争は見方によっては誤ったものであるし、また、見方によってはまったく真なるものである。しかしながらその議論はあたかも一方はすべて良く、他方はすべて悪いとするごとくに対立したものになる。とりわけ良い知らせ、あるいはとりわけ悪い知らせ――たとえば赤ん坊が生まれたとかが家族の誰かが死んだといった――を報告をする患者のことを考えてみよう。このような出来事は、注意深い分析を要する複雑な問題をもたらすのであるが、まず第1に患者は解釈を望んでいるのではなくて、喜びあるいは悲しみの共有という対応を望んでいるのである。さらにこのことは、分析家にとっても直観的な望みであるかもしれない。解釈の中で私たちがこのことを適切に認識できていなければ、解釈自体が凍りついた拒絶となるか、解釈は放棄され、そして非解釈的に行動し、“人間的に”あるよう駆り立てられる。こうして、解釈そのものは理想対象ではないと思う体験を患者が分析家と共有するための手助けを私たちはできなくなる。その体験とは、冷淡な対応や非解釈的な独白というよりは、分析の枠組みの中で分かちあわれる抑うつ態勢の体験なのである。