うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ぶどうの剪定と、《結婚しても、出産を経ても「普通に死にたい」。じゃあ、なぜ今も生きつづけるんですか?》と、【理論的知識それだけでは、二人による実りある協力のその不毛な代替物にすぎなくなってしまうだろう。】


水曜日の入浴介助時に、ブドウの剪定をして来ました。
こちらは、母枝から出た枝がそこそこ揃っていたので、3芽ずつ残して剪定してきました。

 こちらは、母枝から出た枝が、負け枝ばかりだったので、根元から出た枝も残しました。
春に元気そうな方を残して、弱い方は伐ります。
 本当に実が出来るのは来年からなので、楽しみですね!





 夜勤明けでしたが、色々用事を済ませ、無駄になった仕事もあり(笑)むかつきながら帰宅したら(笑)、下記がネットで出ていました。
何気なく読んでいたら、自分と同じやん!と思ってしまいました。
 生きづらさが、本当に分からない人間が、本当に生きづらさを抱えている人間の気持ちが分かるのだろうか?分かったふりは誰でもできますが、そんなもんは直ぐに見分けられます(笑)特に引用させて頂いた箇所は、本当にそう思います。

結婚しても、出産を経ても「普通に死にたい」。じゃあ、なぜ今も生きつづけるんですか? 金原ひとみに聞く
https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/hitomi-kanehara?utm_term=.nlNq0Vpp#.qtrrDNmm

『子どもたちを見ていると、私よりしなやかに生きていて全然違う。うちの長女は今10歳なんですが、自分が10歳の時を思い出してみると、もう非常階段で飛び降りようか悩んで泣いていたんですよ。「なぜ私は子どもの時からずっと生きづらかったんだろう?」と、30歳を過ぎて考えさせられますね。
 でも、これはもう逃れようのない「生まれ持った資質」として、仕方ないと思うようになりました。いろんな人と接する中で、そういう資質の人は一定数いることがわかってきた。生きやすい人と生きづらい人。生きづらい方の一定数に、自分も入っているんだろうなと。 常につらい人は一定数いて、その中にいる自分は特別でもないし、そうでない人たちもまたある種の切実さを持って生きている。小説でも、かつては「この世界は最低だ、生きる価値がない」という罵倒や否定が多かったですが、今はそう思っていない人との差異を認めている前提で書きたいと思っています。』






 本は、用事を済ませるのに、親分の運転中に読みました。今は3.逆転移のワークキング・スルー
を読んでいますので、アップした箇所は、昨日読んだ箇所です。
 下記は本当にそう思います。日々見ていない医者や、相談支援員が現場の声を聴かずに、偉そうに振舞うのは?といつも思っています(笑)
そんなときには、本当に笑うしかない(笑)
 現場で頑張っている者が一番になれるように頑張ります!


『理論的知識それだけでは、二人による実りある協力のその不毛な代替物にすぎなくなってしまうだろう。』

結論
 これまで述べてきたことがとても複雑な主題のほんの周辺部分に触れるにすぎないとしても、少なくとも私が次のような形で始めた疑問に対するおおよその答えを含んでいよう。すなわち、正常な逆転移とは何か?それはどんな風にそしてどのような状況の下で障害されるのか?その障害はどんな風に矯正されるのか、さらにはその過程でおそらく分析をさらに進めるためにその障害がどのように取り扱われうるのか? 分析家の動機は、親的な欲動や修復の欲動と好奇心が混じりあったものである。彼の道具は無意識についての理論的な知識と、彼個人の分析によって得た無意識からの突出物へのパーソナルななじみある知識の双方からなっている。しかしここで問題にしているのは後者についての分析家の用い方、すなわち洞察である。というのはこの洞察は、患者に部分的に同一化するという方法で、分析家自身の無意識についてなじみのある知識を患者の言動について解釈する際に活用する能力から成っているからである。全てがうまくいっているとき、この同一化はとり入れと投影という形の両方を交互に揺れているように思われる。分析家はいわば、彼が聞く患者の連想や観察した姿勢を媒介として患者の精神状態を吸収し、それを分析家自身の無意識の空想世界のあるパターンを表しているものとして認識し、そして解釈を公式化するという行為によって患者を再投影するのである。この段階においては分析家は役立つ形で患者を理解しているというあの感覚を得るだろう。そしてそれは好奇心あと修復の欲動の双方を満足させるものである。ある程度分析家の関心は親としての関心でもある。というのは親にとって子どもは人生早期の自己であり、したがって分析家が最も関心を寄せるのは患者の中の同じ子どもに対してなのである。分析家の触れ合っているという感覚、すなわち共感は、“正常”な逆転移感情を含んでいる。 その過程を前進させるのは、分析家の認識という繰り返される行為である。それは、とり入れる段階においては、(患者が)はまり込んでいる感情のこれこれのパターンは患者の無意識の中でこれこれの空想を表現していると認識することである。この関係の断絶を引き起こすのは、この認識での失敗である。
 失敗の原因は、分析家の中でまだ十分理解されていないために怖れられているもので患者があまりに接近しすぎた何かかもしれない。しかしその結果は分析過程の進み具合が遅れるだけである。それがそのそれぞれの段階をそれだけいっそう観察しやすくしてくれるのだが。このことは特に進み具合が遅れるのが第一段階、すなわちとり入れの段階のときに起こる。そのとき分析家は患者に重荷を負わされたように感じ、過去の未熟な自己のいくらかもまた背負わされたように感じる。彼は、以前はすぐにできていたことをもっとゆっくりしなければならない彼は自分の空想を意識化し、その起源を認識し、彼独自のものと患者のものを分けなければならない。そうして再び患者を対象化するのである。
 しかし分析家は他の2つの要素も取り扱わなければならいだろう。それらはその過程が速やかに進んでいるときにはあまりはっきりしないものである。これらは分析家の感情の混乱への患者側の寄与であり特に投影同一化を用いている場合である。そしてこれらが次には患者に影響を及ぼすことになる。 しかし、分析家が外界での熟知していいないもの、すなわち異質なものとして患者を再投影するときには、分析家は自分の中でこの全てがいまだ区別できていないであろう。そうすると、彼の修復しようとする衝動は有効な解釈に表現手段をまったく見出せないので、それに代わって安心づけというやり方に頼りたい気持ちになるだろう。あるいは、もし分析家が自分の修復力に絶望するなら、患者に対して怒りを感じることによって彼は抑うつから自分を守ろうとするだろう。どちらの場合にも彼の直観は一時的に失せてしまうので、彼の行うどのような解釈も理論的な知識だけに基づいているに過ぎない。理論的知識それだけでは、二人による実りある協力のその不毛な代替物にすぎなくなってしまうだろう。
 私たちが全知の分析家であるなら、経験するであろう唯一の逆転移は全てがうまくいっているときのあの直観力に満ちた時間に属しているものであろう。事実、私が描いてみようとしたやや満足できない状態、そこでは分析家の感情は少なくともある程度混乱しているのだが、その状態はおそらく分析家がすぐさま想起するか承認するよりもずっと多くの分析のための時間を必要とするだろう。しかい、まさにその中においてこそ分析家は沈黙のうちに自分の反応を分析することによって洞察力を養い、自分自身の問題点を減少させ、患者についてより多くのことを学ぶことができる、と私は思う。