うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむの外灯と、【赤ちゃんを満足させてあげられ、落ち着かせてくつろがせてもあげられるといった経験の積み重ねがあってこそ、母親は自分がわが子に適切なものを与えられているようだし、赤ちゃんにしても、そのニーズが理解され、それに見合ったものを与えてくれる誰かが側にいてくれるとの信頼感が培われているふうにうかがわれ、母親としての自らの能力に自信がさらに募ってまいるわけなのです】


 今日は、夜勤でしたが、午前中現場に呼ばれたり、自分の受診があったりして、ばたばたしました(笑)
夕方は、渥美で入浴介助があり、それから夜勤に入らせていただきました。
 日が暮れるのが早くなったので、すろーじゃむの外灯を今年初めてつけました!

 喘息の治療に行っている病院の先生は、うたたねの看護師さんと、渥美病院で仕事をしていたとのことで、今日は患者さんが珍しく少なかったので、少しだけ話をさせていただきましたら、うたたねの看護師さんは、よく気が付いて、仕事もできる人なので、よかったですね!と仰ってくれました。本当にみなさんをよく見てくださって助かっているので、感謝しています。


 いつ本を読んだのかも分からない状態でしたが、携帯には下記を打ち込んでいました。
マーサ・ハリスからですが、タヴィストックの乳幼児観察は本当に有効なんだと改めて思いました。
 ある職員が、支援をしていると、子育てのやり直しをしているようだと言っていましたが、まさしくそのようなことがこの本には書かれていて、精神分析の本の内容を分かりやすく書いてくれているようにも感じます。しばらくはこの本からアップを続けようと思います。


赤ちゃんに‘世界’はどうみえるのか
 〜最初のところ彼はこれらの感覚、これらの経験がいったい外側から来るのかあるいは内側から来るのか区別がつきませんし、対象からなのかあるいは自分のからだから来るのかをも知らないと言えそうです。でも多くの赤ちゃんたちは、ごく初めの頃から、本能的におのれのニーズを充たしてくれるところの対象へと向かう、はっきりとした意志を示します。それはあるきわめて独特な、充たされることを期待するような感覚と言っていいでしょう。たとえばおっぱいを、そして乳首を探し当てるといったふうに……。 もしも赤ちゃんが外界に向けて積極的に伸びてゆこうとする傾向があり、自分が欲しいものをはっきりとつたえられる赤ちゃんでしたら、母親にとっては概して対処しやすいでしょうし、気持ちも楽かと思われます。赤ちゃんを満足させてあげられ、落ち着かせてくつろがせてもあげられるといった経験の積み重ねがあってこそ、母親は自分がわが子に適切なものを与えられているようだし、赤ちゃんにしても、そのニーズが理解され、それに見合ったものを与えてくれる誰かが側にいてくれるとの信頼感が培われているふうにうかがわれ、母親としての自らの能力に自信がさらに募ってまいるわけなのです。







赤ちゃんの‘抱えてもらうニーズ’について
 すでに述べましたように、赤ちゃんは世界とのかかわりをまずはお母さんを知ることをとおして発達させてゆくのであります。つまりお母さんが子どものニーズを解釈し、それを充たすべくさまざまに対応しようとするその姿に日々接し触れ合いながらであります。ですから、そのかかわりは身体的であると同時に、情緒的かつ精神的ともいえましょう。
 初めのうちそうした赤ちゃんのニーズというのはさほど多いともいえませんけれど、しかしもしもそれからすぐさま充たされずにそして事態が緩和されないならば、赤ちゃんはひどく脅かされ身を竦ませてしまうでしょう。新生児が心身をバラバラに崩壊することなく、またカオスやら苦悶といったふうな状態に引き戻されることなく、耐えられるフラストレーションの程度というのはごくわずかであります。ニーズやら期待感のフラストレーションに耐える能力はきわめて少しずつしか育ってゆきません。それがそうなるのは、理解されたとかニーズが認めてもらえたといった経験の蓄積をとおしてであります。それはこころに内在化され、何かしら難儀に出くわしたその折々に援用され、‘つっかい棒’になってくれましょう。 この胎内で抱えられること、そしてさらには母親の腕の中に抱えられること、それはカオス(混沌)を隔絶する仕切りとしての‘最初の防壁’でありまして、そこにおいて彼のパーソナリティは発達してゆくものといえましょう。そうした防壁、保護膜を育んでゆくのは、まさに母親のわが子へ向けられた‘感受性sensitivity’であるといえましょう。それを盾にして心身とも擁護されながら、赤ちゃんはその足場を固めつつ成長を大いに拡げてまいりますし、それで外界の経験をどんどん取り込んでゆくこともできるようになるわけであります。
 まず初めのところ赤ちゃんは自分が何を欲しているのかさっぱり分かっていないといえましょう。赤ちゃんのなかには、最初はただ平穏だけが必要であり、つまり‘胎内戻り’というわけですが、そして生きることの障りとなるものをすべて払いのけることだけしか念頭にないといったふうにしか見られませんでしょう。
 またそれとも違って、どうやら‘訳の分かっている’赤ちゃんもいるみたいです。口をもぞもぞと動かしながら、触れるものを希求しております。それで何らかの満足に出くわさないときにはどうにか探そうとするといったふうに……。時として母親は、手を差しのべて優しく刺激してやるなり、もしくは赤ちゃんがニーズをいまだ感じられれていないとしても、それを促してやらねばなりません。