うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

看護師さんの本と、SKE48とのコラボもありましたと、テレキャスターがピンチと、【分析家が“記憶”を用いないようにと彼は言います。記憶とは異なる患者や精神分析理論について分析家が知っていることに固執しようとする試みです。】


 今日は、うたたねケース会議がありました。
いつもより少しだけ活発な意見が出ていました。10月からは、もっと職員同士が連携できるようにやって行きたいと、伝えさせて頂きました。
 うたたねの看護師さんの娘さんから、素敵な本が送られてきたと、看護師さんが少し前に持ってきてくれていましたが、会議の日に皆さんに見て頂こうと、会議が終わった時に見てもらいました。借りて行った職員がいましたので、分かり易い本ならみなさん読んでくれるのかな?とも思いました。
 うたたね文庫に入れさせて頂きました!


 そういえば、昨日の展示の時に、SKE48とコラボしているような説明がありましたが、取り敢えず写真を撮っておこうと写しただけで、全く文章を読んでいなくて(笑)昨夜、帰宅してから写真の整理をしていた時に読んだらそうやったんや(笑)と思ってしまいました。SKE48に興味があるわけではありませんが、皆さんに話すネタにはなったなと、ちょっと後悔しています(笑)



 ちょっと早く着いたので、大須観音の骨董市に寄りましたが、昼からはお店の方々はもうやる気がないモードでした(笑)
古い犬山焼きの抹茶茶碗の素敵な物があり、値段を聞いたら5,000円、まあ4,000円にしとく!とのことですが、おっちゃんには、高価すぎて(笑)買えませんでした。
 マッタケとサイコロなどが描かれていて、これからの季節にばっちりでしたが.......。
車を置いた駐車場の自販機に落書き?があり、猫の絵に親分が反応していました(笑)これってキティちゃんでしょうか?
 上手い奴しか描くなよ!って言いたいものが、大須の街に沢山ありました......。バスキアやバンスキンとは言いませんが、人目にさらすなら、ある程度の技術とセンスを身に着けて欲しいですね......。汚いだけは勘弁してください!


 テレキャスター(1989年製)がピンチです.....。4弦だけがビリついて、弦高を上げてみましたが、異常な高さにしないとビリつきが治らないので、ネックが反ったのか?(他の弦は大丈夫)フレットの高さのバランスがおかしくなったのか?ブルーストリングスさんに、時間ができたらメンテナンスをお願いしに行きます。
 音はまだまだ現役で、テレキャスターらしい、シャキッとした音がパワフルに出るので、引退させるのはもったいないし、これくらいのレベルのテレキャスターを探すのも大変だし、資金がないですね.......。


 本は、会議が終わってから、うたたね横のファミマで少し読んで、体を追い込みに行きました。今日はちょっと頑張ったので良く寝れそうです(笑)
 下記は、現場でも時々頭をよぎることです。

『分析家が“記憶”を用いないようにと彼は言います。記憶とは異なる患者や精神分析理論について分析家が知っていることに固執しようとする試みです。それから、同じように、知ることができない当面の現実にどっぷりとつかるために、“欲望”も放棄すべきである、彼は言います。欲望とは患者や自分自身についての将来的な期待を意味しています。』
のちの業績(1965and1970)においてビオンは、すべてのセッションのなかに、彼が“O”と呼ぶ、本質的に知ることができない真理が存在しているし、それを体験することは破局的なことであると分析家も患者も感じるゆえにどちらもひどく恐れている、との考えを詳しく検討中しました。彼は力説しているのですが、この現実を人は知ったりを自由に支配したりはできません。人はそれに“なる”ことだけができますー経験から学ぶために思索を使うことなのか、自分自身のなかに変化を生み出すことなく学ぶ者が知識の蓄えを増やすのに思索を使うこととの間についての以前の識別に基づいた発言です。知ることができない、恐ろしい“O”に直面しているとき、ビオンは誠実さfaith (F)を主張します。それによって彼は、そのセッションのなかで可能な限り“O”に近づくために分析家が自分の一般的な属性を捨てようとする意志を意味しています。分析家が“記憶”を用いないようにと彼は言います。記憶とは異なる患者や精神分析理論について分析家が知っていることに固執しようとする試みです。それから、同じように、知ることができない当面の現実にどっぷりとつかるために、“欲望”も放棄すべきである、彼は言います。欲望とは患者や自分自身についての将来的な期待を意味しています(『記憶と欲望についての覚書』、1967、原書2巻に再掲載、を参照、『注意と解釈』、1970、も参照)。 これらの禁止命令の反応はさまざまです。2、3の分析家たちは記憶と欲望を絶やすという考えに魅せられています。分析家によっては“O”や“F”という観念を神秘がかったナンセンスと立腹し、反発しています。現実や真理を理解しようとすることのなかに本質的に備わっている破局という考えとか、記憶や欲望を慎むという考えに同意している分析家たちがいます。しかしながら、私が話しあってきた分析家たちの多くは、記憶や欲望を根絶しようとする真に誠心込めた試みは分析家を精神病状態に陥らせてしまうと感じています。記憶と欲望についてのこれらの慎重な破棄者たちは熱狂的な解説者たちには懐疑的であり、“O”や“F”という考えとか記憶や欲望を放棄するという考えにあまりに無批判であることは、無知と怠惰の理想化へと変わりうると考えています。 人間の基本的で連続的な局面としての恐ろしい破局という観念は、エスター・ビックの業績の基礎ともなっているものです。これらの彼女の業績を思索についての理論への寄与とは彼女は考えませんでしたが、存在の中心であるとともにごまかし逃れるために誰でもが思考や思索を使う事態でもある、究極の基本体験としてのこの破局感を同時に述べています。彼女は、中核的破局を原初的な幼児期の無統合の体験と考えました;しかし、それが大人の生活にも続いていくことを彼女は強調しています。このことについての彼女の記述は、真理と出会った際の、未統合についての、ビオンの“O”についての概念と一致しています。ただ、ビックは破局を原初的幼児期体験として強調していますが、ビオンは破局を真理に出会うなかに不可避に備わっているものと力説しています。ビックの考えでは、ばらばらに崩れ落ちること、空間のなかへと底知れず落ちていくこと、その人の内側が液化し、とめどなく溢れ出ることとして体験されます。彼女は考えたのですが、この不安への反応は、自己を1つにつなぎとめるためにすべての感覚を絶望的に必死に使うことですー輝いている対象群、音、抱かれていること、口の中の乳首の感触に集中します;のちには、活動や動作や思索のある型それ自体が、自己を抱きとめるこの機能を担います。彼女の記述は、患者の素材だけでなく、幼児観察での事実にもとてもいきいきとした意味深さを与えています。彼女は“付着同一化”adhesive identification という用語を、その個人と対象が離れると心的ダメージや亀裂が生じてしまうから、ただ“くっつく”だけで投影もとり入れもない対象への接着によって自分自身をつなぎとめているやり方を描くのに用いました。このとても原初水準の思索や体験においては深みという概念がありません。それは二次元世界です。これらの考えのいくらかをとても短い論文『早期対象関係におけるひふの体験』(1968,ここに再掲載)のなかに表しています。メルツァーは付着同一化についての彼女の考えが自閉児の研究に有用であると感じています(Meltzer 1975)。しかし、ビック自身は彼女の考えについてはそれ以上書きませんでしたし、私の見るところでは、付着同一化と投影ととり入れとのあいだに手応えのある概念的つながりは作っていません。〜