うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

太平洋と、【彼には、中心的自己のようなものと体験の間に、特に視覚的体験や聴覚的体験との間に、置くべき心の膜がないようでした。】


今日は、遅番で昼からの勤務だったので、午前中は体を動かしてシャワーを浴びて出勤しましたが、暑かったので、直ぐに発汗で服がベトベトになりました.....。
 昼一に、面談があり待ち合わせの施設に早めに着いたので、施設の方が、海の見える場所を教えて下さり、しばらくボーっとさせていただきました。

 毎日色々ありますが、あるから張り合いも出るというものです!
先日アップさせて頂いたTEDのように『何!仕事の困難だって?そんなのまかせとけ!』みたいな感じがするのは、自分だけでしょうか?京都時代のことを思うと楽な仕事をさせて頂いているし、時間も作れば山ほどあるので、今は自分なりに幸せです。生活の困難を幼少時から乗り越えて来た身には、本当にそう思ってしまいます。(笑)


 今日は、久し振りに神戸館さんに行かせて頂き、年末チャリティーの話をして頂きました。規模は小さくなりますが、今年もして頂けるとのこと。して頂けるだけで、感謝です。本当に毎年ありがとうございます!


 アップは、早起きして(笑)読んだ箇所です。昨日の続きです。
参考文献に『メラニー・クライン Today』と出て来るので、Amazonで検索したら2巻あり、一冊が約3万円になっていました.....。土下座してでも買ってほしい本ですが無理でしょうか?
 この本も、カバーがなしで約15,000円.....。良い本は値打ちが出ますね!



〜彼の外的な生活ではまた例えば、恐怖といったある種のものは非常に現実的でした。彼は吠える犬、タクシーのエンジンのブォンという音、そのフロントのワイパーの音、建設現場で働く男性たちなど、おおよそ大きな音という音を恐がりました。彼は吠えるしばしばまぶしい光は目を痛めると感じていましたし、ある時、大型トラックが轟音をたてて通り過ぎると、耳をふさいだだけでなく、「頭が壊れる」と言いながら、頭全体を抱えました。彼には、中心的自己のようなものと体験の間に、特に視覚的体験や聴覚的体験との間に、置くべき心の膜がないようでした。体験はあまりに直接的に生じ、それゆえ、彼はひきこもるかははるかかなたへと落ち込み、その時にはあまりにも遠かったのです。

彼はひきこもるかまた、多くの自閉症児たちがあまりに強力な体験から自分を守るために用いるような、もっと病的な方法すら持ち合わせていませんでした。Frances Tustin は、これをカプセル化(encapsulation )と呼び、他の臨床家はひきこもるかこういった子どもたちのもつ殼の中にいる感じについて記述しています。Tustin は、自分自身と望まぬ現実との間に、いくばくかの発達した行動を差し挟むことのできる「甲殻類(crustaceans)」と、その能力すら持たない「アメーバ(amoeba )」タイプとを区別しました(Tustin 1972)。ずいぶん前に、私はカナダで、自閉症児を動物園に一人で連れていったことがありました。その子は光るものに夢中でしたが、彼ですら、ライオンやトラやサルに子どもらしい関心を少しは示すだろうと思っていました。しかし、檻の上に換気扇がありって回転する際に、天井に光と影の複雑な模様を作り出していました。彼の目はそれに釘づけになり、彼がみたものはそれだけ、彼が自らに見ることを許したのはそれだけだったのです。私が知っている、同じ病院から来た別の子どもは、一日中、小さなトランジスタ・ラジオのある特定のノイズは聞いていました。これらの子どもたちは、一種の自己催眠を行っていました。Tustin はこうした、固着される愛着対象、生命ある世界を閉ざすのにたいへん効果的に用いられうる対象を「自閉対象(autistic object )」と呼んでいます


〜投影は、受容性、友情、敵意といったさまざまな度合いをもつ想像上の人物に入り込むというのが、Klein 派の見解です。しかし、ロビーは一度も叫んだり、泣いたり、感情を爆発させたりしませんでした。時々彼はすすり泣きました。赤ん坊の時、どのような力が彼の泣き声にあったのかわかりませんが、多くがあったとは思えません。彼のうちには、悪い体験を捉え、それを保持し、再び投げ返すことができるものは何もないように見えました。恐らく彼はそれを受け止めるために待っている人はいないと感じていたのでしょう。もちろん、悪い体験というのは、心的なものも身体的なものもあります。彼は、心的に助けが必要な時、身体的な生産物に狂ったようにしがみつきました。彼は便秘で、冬の間中、カタルにひどく苦しみました。彼は鼻をかむことすらできなかったのです。鼻がつまり、ふさがってしまうと、彼はますます鼻をすすらないといけないと感じました。彼は実際と恐ろしくて出しっぱなしをできず、さもないと自分自身を全て失ってしまうかのように見えましたが、まさにこれが真の危険だったのです。つらい感情をなくすための彼のやり方の一つは、足をひきずるように行ったり来たりし、手を床の方へ振ることでした。この状態から抜け出してきた時、彼は、ほっとする代わりにただ空っぽで生命感がなく、絶望が少なくなった代わりに、むしろもっと死んだようになりました。〜