うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

「歌は文学と異なり読まれるのではなく、歌われてこそ意味がある」と、『心的外傷後成長ハンドブック』と【ピフィーは破局を防ぐために経験をコントロールすることに専心していると言えるだろう。このようにして彼は内的現実と外的現実の違いを強力に否認するために思考を通�


夏ですね! 朝のひーひー王子との散歩で、玉虫が轢かれて、アリに集られていました......。
やはり、玉虫を見ると、京都の下賀茂神社を思い出します。
 今日は、夜勤ですが、何かと用事ができたり、面談の日が決まったりともう時間となりました。


 昨日、ネットのニュースを見ていたら、下記の記事が出ていました。
個人的な意見はさておき(笑) 「歌は文学と異なり読まれるのではなく、歌われてこそ意味がある」には深く賛同します。

【ロンドン時事】2016年のノーベル文学賞を授与された米シンガー・ソングライターボブ・ディランさんの受賞講演の録音が5日、賞の選考に当たるスウェーデン・アカデミーから公開された。歌詞は歌われてこそ真価を発揮すると強調し、歌に耳を傾ける機会を持ってほしいと呼び掛けている。 講演は約27分で、ディランさんの肉声で録音されている。十代に崇拝した米歌手バディ・ホリーのほか、歌詞を書き始めたころに知り、作品に大きな影響を与えたという米作家メルビルの「白鯨」など文学作品も取り上げた。 その上で、講演の冒頭の授賞の知らせを聞いた時に浮かんだ「自分の歌は文学とどう関係があるのか」という問いに戻り、英劇作家シェークスピアの演劇の中の言葉は演じられてこそ意味があるのと同様、「歌は文学と異なり読まれるのではなく、歌われてこそ意味がある」と結論した。 



 図書館に『日本の耳』を探しに行きましたがありませんでしたので、下記を借りてきました。
少しだけ読ませて頂きましたが、難しそうです......。欲しい情報だけ頂こうと借りました。
 


『心的外傷後成長ハンドブック』
第1章 心的外傷後成長の基礎
発達的枠組み


「少々の悲しみがなければ美しいサンバの音色は生まれない」Vinicius de Morais Baden Powell による楽曲「祝福のサンバ」の一節


 困難な人生による苦しみが、時には人間を根本的によい方向に変えるという考えは目新しいものではないし、社会・行動科学者や臨床家によって「発見」されたものでもない。われわれやほかの研究者は生まれこれまで次のような仮説を示してきた。それは、強い苦悩や喪失を含む心的外傷を経験した人の何人かは、それに引き続いて非常によい変化を遂げるであろうということである。
 苦悩や危機が伴うもがきから、時に成長が生まれるというテーマは、過去の文献や哲学のなかにみられるし、少なくともある意味で、古典と現代両方の宗教的思考の中心を占めてきたともいえるだろう。たとえば、仏教の起源は人間の苦悩の終焉と避けられない死に至るまでのゴータマ。シッダールタ王子の修行にあるといわれている。キリスト教のほとんどの宗派において、イエスの苦しみは、人類の救済にとって重要で中心的なものだとみなされている。伝統的なイスラム教においても、少なくともある一定の状況において、苦しみは「天国への旅」に向かってよりよい準備をするための手段であるととらえられている。同様に、ギリシア神話の世界でも苦悩がカタルシスや変革をもたらすものとされている。過去数千年もの間、世界中の文献において、悲劇、苦悩、そして喪失に対するもがきから生まれる意味や変化の可能性を把握しようとする試みがなされてきた。個人が心的外傷の苦しみに向き合うことが著しい成長をもたらすという考え自体は、目新しいものではない。〜





 下記は、昨日の続きです。
メルツァーの深さに、慄きながら(笑)頑張って読ませていただいています。

〜投影同一化への没頭が部屋、階段、そして家屋に対するピフィーの関係の中に顕著である一方、このことは遊びの素材の中で中心的な困難として現れることはなかった。むしろ、母親対象に対する、この圧倒的な支配と感覚的な要求は、私が、自閉症機制のいわば最初の派生物的土台思っているもの、すなわち、対象を(「断片化」に対比される)切片化して再構成することへの極端な没頭を通して表出されていることが見てとれる。強調点は圧倒的に口唇的に見え、そして強度の万能感を伴った極端に原始的なタイプの強迫機制(包みにすること、ダイニング・テーブルの絵、色彩クレヨンを並べること、等々)の中に現れていた。

〜ティミーの対象が、欲求不満を引き起こしたり傷つけたりする時は、ライバルの赤ん坊たちによって所有されているに見えたのと対照的に、ピフィーの対象はぺニスがなく、それゆえ受身的で容易に隷属状態になる時にのみ(クッションの素材、汽車、絵を順序よく並べること等々)良いものであるように見える。〜

しかし、それは、自分の口が乳房にとって快の源泉であるとしてそれを理想化している状態を粉砕する恐れがあるのではないかと私は推測している。こうした口の理想化は、噛んだり、吐いたり、吹き飛ばしたり、そして舌で-刺すタイプの攻撃性の激しい否認を伴っており、それに続いて起こったり、それに依拠したりしている。 
 この主に口唇的体制の躁的償いは、鋏、プレイルームのリノリウムの床敷きの線、鋲、その他の着ずなどをこすって写し取ることの背後に潜んでいるように見える。〜

〜 どちらの子どもにおいても精神病理学上の強調点は、アイデンティティを確立する手段として、また、外的対象からの分離にうまく対処するために摂取の能力を発達させて利用することに失敗しているように思えるということであろう。

ピフィーは破局を防ぐために経験をコントロールすることに専心していると言えるだろう。このようにして彼は内的現実と外的現実の違いを強力に否認するために思考を通してで支配を活用している。

強迫機制が重要な役割を演じている他の状況を経験することで、自閉症によって発達が停止している子どもにおいても、発達を回復しているもののポスト自閉状態タイプの精神病を示している子どもたちにおいても、もっとも原始的な意味でこれらの機制を用いていることが見られるという確信を強めた。これらの機制を用いているパーソナリティ構造は極めて太古的であり、思考、コミュニケーションそして行動の文化的で家族的な諸パターンとのつながりを持たないように見え、際立った単純さで強迫機制の作用の本質を明瞭に示している。一言でいえば、その本質は現象学的な意味での隔離(isolation)の手段であると言えるだろう。この隔離という言葉は、作用の基本原理を表現しているのであって、その機能の様式を表現しているものではない。それは思考の内容からの「感情の隔離」を記述するために過去に精神医学的記述方法の中で使用されてきており、確かに強迫性疾患の臨床現象の一つである。しかし、機制そのものを記述するために私は「切片化」ないし「分解」(『こころの性愛状態』第15章参照)といったようなより他動詞的な言葉を採用したいと思う。このような言葉がある前提を含意しているのは容易に分かるだろう。すなわち、最初期の近く過程は神経—生理学的な水準での諸感覚の統合を含んでいる。それも、心の水準というよりも脳の水準でという前提である。ゲシュタルト「心理学」の近くに関する実験室的な仕事の多くは、たとえば、これらの事象とそれらに内在化している様式の輪郭を描くことに専念している。さらに、ウィルフレッド・ビオンが「アルファ機能」の領域として(記述したのではなく)定式化したものはこのカテゴリーに属しているのではないかと私は強く思う。それは、』ある意味、心的機能の生の素材、意味が帰せられるところのデータなのである。〜