うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

【「なんでお母さんはああしないの?」と言った。そこには、母親が彼に関してより毅然とし、彼の暴力や侵入に抵抗する決意をもっと強くもっているべきだという含みがあった】


今日も、事務仕事の一日でしたが、夕方ショートステイご利用していただいている方のお母さんが様子を見たいとのことで、現場に入らせていただきましたが、色々あり、入ってよかったと思いました(笑)
 ねこさんは今日も寝てばかりで、本当に羨ましい......。
総会の準備をしながら、資料に目を通すと、訂正ばかりしています.....。

 気がついたら、何年かぶりに親分がブログの更新をしていました(笑)
まあ、気がつくのが遅かったので二重になってしまいました。

 早めに現場に向かい、ファミマでコーヒーを飲みながら少しだけ本を読みました。
アップはそのときの個所です。

 随所に、毅然とした態度が必要だとの見解が出てきますが、本当にそうだと思います。
ある面、理解しにくい方々なので、(境界があいまいなので)きちんと線引きをさせていただくことが、その方々のためになることが多いし、そうしてあげないと、分からないことも沢山あると思われます。
 下記ははっきりとそのような場面を記述していると思いました。

「もう何で僕が醜いのか分かるよ」と叫んだ。彼は出てきて、再びドアを蹴り、母親の方に向き直って悲しげに、「なんでお母さんはああしないの?」と言った。そこには、母親が彼に関してより毅然とし、彼の暴力や侵入に抵抗する決意をもっと強くもっているべきだという含みがあった。




第4期(3年半〜5年)(1965〜68)
[概要]内的・外的現実と関連した責任についての危機。この時期のマネージメントの技法の問題点が例証される。一度この責任が確立されると、攻撃性、破壊性、猥雑性、嘲りの減少が見られた。それは、「もう何で僕が醜いのか分かるよ!」という泣き叫びによって特徴づけられ、代わりに「近眼のマグー」すなわちパパとの同一化する中で、愛情、忍耐強さ、楽観主義が出現した。

 最初の責任に関する危機は、バリーの分析3年目、1964年の聖霊降臨祭直前に訪れた。この時点で彼は15歳になろうとしており、すっかり若年過体重者となっていた。もし分析を続けるのであれば、依然として迫害や欲求不満を感じた時はいつでも分析家を引っかき、掴み、蹴っていた乳児的な攻撃性をバリーが制限できるようにならなければならないことは明らかであった。これまでに概略を述べてきた素材から、彼が自分と同様分析家にとっての危険や損害を、それが起きた時にはいつでも、十分理解しており、十分に区別できていそうに思われた。
 分析の中ですでに起こったことを彼に思い起こさせながらこのとこを説明し、6ヵ月から2歳の赤ん坊にはたとえ自分がそうできると考えていたとしても現実的な物理的損害をほとんど与えることはできないが、15歳の身体の中にいる2歳時には分析家を無能力にして次の患者の役に立たないようにすることができるし、実際にそうなるだろうし、それは許されないということを強調した。
 できる限り長く私たちの間で起きていることを解釈し続けつつも、傷つけられないようにするという私の決意が本当に揺るがないものであることが分かるまでの道のりを、とことん試してくるというのがこの子ども/若者の特徴だった。それから私たちの間に、暴力が起きた時にはいつでも、たとえ翌日定時に再開し、暴力がないかぎり続けるとしても、その日のセッションは終わるということが確立された。私がある暴力的な猛攻撃の後、[バリーを外に出し]治療室のドアを閉めておかなければならず、彼がドアを蹴り、ドシンドシンと叩き、中に入れるように叫びながら要求している時に危機が訪れた。母親はなす術もなく立っており、彼は母親を蹴り、トイレに飛んでいき、トイレのドアを大きな音を立てて蹴り、それから大粒の涙を流して、「もう何で僕が醜いのか分かるよ」と叫んだ。彼は出てきて、再びドアを蹴り、母親の方に向き直って悲しげに、「なんでお母さんはああしないの?」と言った。そこには、母親が彼に関してより毅然とし、彼の暴力や侵入に抵抗する決意をもっと強くもっているべきだという含みがあった。 〜