うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

“あいち”まちじゅう・アール・ブリュット展と、あいち第16回全国障害者芸術・文化祭 あいち大会開催1周年記念アール・ブリュット×アティックアート連携作品展と、【その母親は、肉体としてはそこに居た(そして彼の話では献身的であった)にもかかわらず、精神的には居なかった、もしくは赤ん坊に共鳴する能力がなかったようだという考えが生まれた。】


まずは、“あいち”まちじゅう・アール・ブリュット展の紹介からです。
カーグの作家たちが沢山出るのは、下記の平野屋さんです。

 親分曰く、素敵な温泉旅館さんとのことです。

 玄関はこんな感じで

 作品が飾られる場所は、この裏表との事です。
どんな感じに展示されるのか?楽しみですね!
搬入は11月29日です。


 次は、『あいち第16回全国障害者芸術・文化祭 あいち大会開催1周年記念アール・ブリュット×アティックアート連携作品展』です。
名前が長いですが(笑)

 カーグのまつおさんの作品を、商品化した(他の方とのコラボですが)のを近くで見る事ができるのが、下記です。

 おそらく、原画も展示されると思われます。

 再掲になりますが、こんな感じです。
今日、愛知県から正式な契約書が送られてきていました。





 今日は、事務仕事と、渥美への夕方の送迎と、渥美での入浴介助が仕事でした。明日は、人数も障がい程度区分も大変な方が居られるのに、早番がついてなかったので、配置的には問題はないのですが、志願して入ります。インフルエンザの予防接種もあります(笑)


 本は、学齢児さんのバスが来るまで、読んでいました。やっと第一部が終わり、明日から第二部に入ります。

 下記は、現場でもあってはならないことのように感じました。
『彼の振る舞いと私自身の反応から、ごく早期の母親との関係で、その母親は、肉体としてはそこに居た(そして彼の話では献身的であった)にもかかわらず、精神的には居なかった、もしくは赤ん坊に共鳴する能力がなかったようだという考えが生まれた。』



〜私が彼に何か言った後に彼が「はい」と言ったときには、私に語ったことにつないでは、彼が考えたこと、思ったこと、、感じたこととの関係はまったく生まれなかった。このことは、それからの連想や折々の直接的な言及に現れていた。「はい」のこの言い方は、発言のマンネリズムとみなされるだろうが、私の心に強い印象を与えた。奇妙なことに、初め私は疎外感を感じた。徐々に、赤ん坊が泣き叫んでいる、もしくは何かをコミュニケートしようとしていて、「はい、はい、いい子ね」という優しい言葉を受けているが、それは機械的な反応である、という心象が私の心に湧いた。彼の振る舞いと私自身の反応から、ごく早期の母親との関係で、その母親は、肉体としてはそこに居た(そして彼の話では献身的であった)にもかかわらず、精神的には居なかった、もしくは赤ん坊に共鳴する能力がなかったようだという考えが生まれた。




〜さて、私が患者に述べたことの言外の意味について考察したい。私が記述した投影同一化の過程は、私の見解では、あのとき、彼によって防衛とコミュニケーションの双方として使用されていた。彼は自分の幼児期のある姿を私のなかに投影してもいたが、そして同時に、応答しない内的対象に同一化していた。これは彼の母親との早期の関係であり、その特性は彼のなかで凍結されたままになっており、彼の人格の残りの部分から分離されていたのであった。



患者の無意識の空想は、患者に分析家との関係に焦点をあて続けることで詳細に探索できると思う。このことはまた、分析家におのれに関するあらゆる事柄を詳しく検討するよう求める。それは次に、分析家が患者への振る舞いを中立かつ変わらないままに保つと同時に、情緒的にもっと能動的であることを求めてくるのである。患者への情緒的なこの近さは、誰でも知っているように、しばしばとても居心地の悪くものなのである。ゆえに分析家は、過去の原体験と思われることと関係させて現実の状況をあまりにあわてて説明することによって、あるいはその描写を幼児期の体験に基づいた言葉に無理に入れることによって不快を避ける、ということがないように注意しなくてはならない。〜