写真は銀座にあった、ヤマハのビルです。蒔絵のように見えました。
次回は、草間彌生さんの作品を紹介させて頂きます。
今日で見にくいブログは終われそうです(笑)PCで操作できるようになりました。
今日は夜勤明けで、お昼から大事な方とお会いするので、本を読みながら待機していました。( ̄0 ̄)/
まずは、東京で食べた残りの千疋やのお菓子で一服頂きました。(* ̄ー ̄)
お薄に良く合いました。
( ̄0 ̄)/
まずは、東京で食べた残りの千疋やのお菓子で一服頂きました。(* ̄ー ̄)
お薄に良く合いました。
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一気に第4章を難しいですか読み終え、第5章に入りました。
アップは第4章からです。
母性的な対象を、引き裂いたり、引き抜いたり、ずかずかと踏み入ったりすることで、独占的な支配や所有を得ようとする持続的で残忍な闘いは、欠陥のある対象を生み出すことになった。彼は対象が傷付き易い赤ん坊-ジョンを包容し保持することを不可能にした。彼による侵入や乗っ取られることで、汚染されることのない対象を内在化することができなかった。「女の人、いなくなっちゃった」という絶望が押し寄せ、それに曝されていることは、外的対象不在の拠り所となる確固とした内的な支持的状況を持っていないことから生じている。そして今度は、十分に力強い内的対象の不在は、自分自身を丸ごともう一度対象の中に投げ込むという欲求を恒常的に再強化しているのであり、このようにしてこのサイクルは続いていくのである。(ママが乳首-守衛のパパを一時的に受け入れている場合)同一化が起こりうる時は、損なわれたり、制限されたりしている対象への同一化のように思える。たとえば「口の中の蓋」は、間違った組合せ、つまり、侵入者に対しては充分に閉じられてはいるものの、ものを言わせなくしてしまうようなことを許容する対象との同一化を表していたのかもしれない。
怯え苦しんでいる部分をしっかり抱き止めることができる内的な母親を得ることができていないので、ジョンは心配と不安に対して無防備なままである。彼の世界全体は、容易に崩壊し、絶望の襲来に曝される。彼は、自分の性質の中の破壊的な部分を統合することもできない。そのために彼は以下の心的状態のようなものの間で絶望的に移り変わるのである。残忍な諸部分への屈服、状態-テディベアという否定主義と暴力の組合せ。これがあまりに行き過ぎてしまってお母さんを泣かしてしまうように感じられると、もともとの優しさが再び強く現れ、ジョンは、慰められることのない悲嘆と躁的な償いとの間を交代するようになることが観察される。抑うつ的な葛藤を取り扱う別の方法は、破壊的な部分と傷つき易い部分を一緒に閉じ込めることであるように思える。そうすると彼は身動きが取れない。彼はママの乳房に負担をかけないように食欲を減退させるかもしれないし、心を空っぽにして無思考状態になりお母さんの心に負担をかけないようにするかもしれない。もしくは最終的には、絶望に圧倒された時、ジョンは中核的自閉状態に戻ってしまうだろう。痛みも愛をも経験する能力を事実上、放り出してしまうのである。
心的な発達のその最初の一歩は中核母親の乳首-乳房-注意という、赤ん坊の心をまとめる命綱(ライフライン)を失う恐怖を克服することであるということをジョンは私たちに教えてくれたと言えるだろう。乳児が自分と現存する母親との間の空間に耐えられるようになるということが、分離した同一性の発達における最も重要な一歩であるように思われる。授乳されている時に母親を見上げその目に入り、乳首が口から離れ去った後に母親に微笑むことができる赤ん坊は、この程度の分離性を既に達成している。これは、自己自身の身/心の境界の内面にいることができるという長い発達の道筋の最初の一歩である。それは、この一時的な分離性の経験から、一人でいることができ、自立できることを経て、最終的には、わずかな人たちしか到達していないあの段階、身体的にも心的にも遠く離れていても愛情対象との内的な繋がりを保ちつつ未知なる領域への探索の道を歩むことのできる能力へ達するのである。