うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

碧南市美術館と、【自閉状態という「門」を通過するために分解された自己の感覚的な構成要素が、門の向こう側で労せず再び「一緒になる」ことが可能なのである。】


 今日は、碧南在住の副理事長に会いに、仕事場である、高浜市の『おかしやみずき』さんに行って来ました。
ついでに、碧南市美術館にも行きましたが、『花森安治の仕事』展は早く見に行きたかった展示でもあり、内容も凄く良かったです。沢山の来場者で、駐車場も一杯(キャパが小さいですが......)で離れた駐車場まで行きました。NHK効果だよと親分が言っていましたが、自分には直ぐにピントこなくて(笑)そういえば、朝ドラでやっていたなと、暫くしてから思い出しました(笑)
 本当にその道に才能があったり、努力して技術を身に付けられた方々は、絵描きなら目の前に紙やキャンバスがあれば、書かずにはおれないだろうし、音楽家なら、目の前に楽器があれば弾かずにはおれないと思います。
花森さんもそんな感じだったと思わせてくれるような展示でした。


 『おかしやみずき』さんでは、総会で出させて頂くお菓子と、お土産用のお菓子をお願いしてきました。


 なんやかんやで、もうこんな時間......。自分には関係がなかったゴールデンウィークが終わろうとしています。

 何とか本は少しだけ読みましたが、本当にこれだけ掘り下げて考えられるというのは、余程頭がよくないと無理ですね.....。


 下記は現場でも、悩ましいですが、最後の一線は引きながらも、許容範囲を広げないと接触できない場合があります。厳しさだけを良しとする方には、中々出来ない事でしょうが、重要なことが書かれていると自分には思いました。

『自閉状態にある子どもを、再び転移的な交流へと回復させるために、一時停止した注意を再活動させる能力が治療者には必要であることが、私たちの研究の中では、かなり早期から明白になっていた。この目的を果たすためには、声の使い方、注意、態度などを直観的な技法的に工夫しながら、自閉状態に陥る前の転移状態を解釈し続けることが必要である。技法的な工夫としては、通常の子どもの分析とは異なって、子どもが治療者の体に触ってきたり、覗き込んできたり、臭いを嗅いできたり、舐めたりすることをある程度許容するすることが含まれている。通常の分析ではこうしたことはまず許容しない。』



力動論的側面
 つまり、私たちの考えでは、自閉状態という「門」を通過するために分解された自己の感覚的な構成要素が、門の向こう側で労せず再び「一緒になる」ことが可能なのである。ここまでのところ、私たちは自分たちの理論モデルを必要以上に複雑にしすぎてかえってかえって分かりづらくしていたのかもしれない。そこで、この過程の力動的側面に目を向けることで、もっと得るものがあるのだろう。ここで自閉症の子どもにきわめて顕著に認められる強迫性(強迫的な性質)という問題に直面すると、強迫性のより洗練された行使形態〔つまり通常の神経症的強迫性〕では容易くは検知できない。強迫性の原始的様相を発見して驚くのである。強迫性は、行動やその背後にある思考が際限もなく続きかねない仕方で反復されるわけであるが、概してそのもっとも目立つ特徴は、その始まりと終わりが同じように謎に満ちていることである。その中で働いている要因は、神経症者の研究において見出されてきた。すなわち、対象と対象を万能的に分離したりコントロールすることによって、迫害不安もしくは抑うつ不安が引き起こされるのであり、どちらの不安が優勢かはその動機の残酷さによるということである。強迫的反復は、対象と対象が再結合しようとする性質を持つため、それらを監視し続ける必要があることの表れとして見ることができる。他方ではそれは、対象が世話をされ栄養補給される必要があることの表れでもある。なぜなら分離されることで(償いの過程が妨害されるので)荒廃がもたらされるのである。〜

フロイトが初期の「局所論モデル」の定式化の時代にシステムとしての無意識(uncs.)が無時間的であると言及したことは、「構造論モデル」のイドについても言及される必要があっただろう。時間の理解が確かに自我への機能であることは、これまでにかなり詳細に論じてした通りである。反復への衝動性は、イドの経済原則を無視しているが、同様にイドや外界との関係から見ると、自我の快—苦痛—現実原則も無視しており、自我と超自我理想との関係から見ると、妄想—分裂—抑うつポジションをも無視しているのである。
 フロイトが「快感原則の彼岸」の中で企てたような反復強迫の研究は、おそらくあまりに思弁的で宇宙論的なので、すぐには臨床的な研究には役に立たないだろう。もっと神経生理学的な根拠に基づいた概念が求められているのである。精神分析が、たとえば条件反射やゲシュタルト心理学派によって研究された知覚過程や、動物行動学や神経病理学といった他の心理学の分野における業績と友好関係を回復する時にこそ、イドの性質について私たちの理解が始まるのである。自我機能の注意の一時停止によって自己が感覚的な構成要素に分解される時、まとまりをもつ自己は一時的に存在を停止する。すなわち、めいめいの断片、というよりもむしろ構成要素は、イドやその経済と力動によって支配される原始状態へと変えられてしまう。この原始性は本質的に無思考状態(mindless)であると、私たちは提案したい。これらの事象は心の行為とはみなされないし、どんな手段によっても、想起される記憶へと集積することが出来るような経験にもなりえず、また予期するための基礎となるような経験にもなりえない。
 けれども、神経症における強迫性の研究の中に現われてくる謎、すなわち際限なく続きかねない反復を終結させうるのはどのような条件なのかという問いに対して、暫定的な回答が中核的自閉状態の観察を通じて見つかる。ジョン(イスカ・ウィッテンバーグ)とティミー(ジョン・ベレンナー)の症例においては、彼らが治療者を非常に官能的に捉えている点にその転移関係の特徴があることが、たいへん明瞭に描かれている。自閉状態にある子どもを、再び転移的な交流へと回復させるために、一時停止した注意を再活動させる能力が治療者には必要であることが、私たちの研究の中では、かなり早期から明白になっていた。この目的を果たすためには、声の使い方、注意、態度などを直観的な技法的に工夫しながら、自閉状態に陥る前の転移状態を解釈し続けることが必要である。技法的な工夫としては、通常の子どもの分析とは異なって、子どもが治療者の体に触ってきたり、覗き込んできたり、臭いを嗅いできたり、舐めたりすることをある程度許容するすることが含まれている。通常の分析ではこうしたことはまず許容しない。
 このように治療者の身体を直接的に使用することは、自閉症の子どもが圧倒的な口愛的な官能性を持っているので絶大な効果を持っている。ティミー(ジョン・ブレンナー)は治療者のしゃべっている口許のすぐ近くに彼の唇を持ってきて、出てくる言葉を具体的に食べてしまいかねない感じだった。ジョン(イスカ・ウィッテンバーグ)は、階段の踊り場で薔薇模様のステンドグラスを食い入るように見るのとまったくおなじように、治療者の両目や上着の下を覗き込みかねない様子だった。転移の中で治療者が乳房という部分対象の意義を持つようになることは、治療の早期から、原始的で官能的なやり方で確立されていた。もっとも、それがもっと抽象的な意味合いを帯びるようになるのはずっと後であったのだが、これは、成人であれ子どもであれ、神経症患者の分析過程では長くて困難な努力の末に確立されることを考えれば、驚くべき速さなのである。