うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむの湯と、【構造的特性】(自閉症の探究より)


 ゴールデンウィークも、明日で終わります。
今日の日中は、浜松に行ったり、すろーじゃむの湯に入ったり、皆さん楽しまれました!
 最近、すろーじゃむの湯は大活躍!
初めての方は、広いのでびっくりしたり、笑顔になったり!
 大人が3人一緒に浸かれるので、気持ちまでゆったりします。
職員配置が、長い休日の期間は大変ですが、出て来てくれる職員が頑張って支援してくれています。
 今日も何事もなく一日が終われそうなので、皆さんに感謝です!


 今日も早めに出て、マックでコーヒーを飲みながら本を読みました。
アップの箇所は、昨日読んでいた箇所ですが、マックで携帯に打ち込みました。
 
『分裂』と『分解』というのは、前者が定型発達時に起こるもので、後者は自閉的な時に起こるのでしょうか?
『分解』というのは、それをくっつけたりまとめたりするのが困難そうですね......。そのヒントを毎日探しているので、本を読み続けています。

 下記を読むと、本当に困難そうですが、何とか答えを見つけていきたと、頑張るしかないですね!

『自我―イド―超自我理想というような一つの構造が分解されていると理解したい。』



構造的特性
 ここまで示してきたように、同じ一人の子どもの中でも中核的自閉状態は、自閉状態の外部に属する心の状態から分離できるという見方を私たちはとっている。その一方が他方へ影響する仕方は後に述べよう。この時点で、心的なものであり同時に本質的な無思考状態でもあるような中核的自閉状態の構造を定義するという困難な仕事に向き合わなければならない。そして既に述べたように、この状況を理解する鍵は、時間の経過を認知することの一時停止にあるように思える。けれどもそれは、循環的な時間概念、振動的な時間概念、あるいは他の断片化された時間概念といった、さまざまなタイプの時間経過の否認とはまったく異なるものである。私たちは、自我―イド―超自我理想というような一つの構造が分解されていると理解したい。そして、それは次のような特性を持つやり方でなされるのである。すなわち、それは瞬時に成し遂げられる。そして、それは伸びた心のバネが再び縮まるようにほとんど労せず元通りになる。その心の働きは他の心の事象とつながり(linkage)を持ちえないという特性を持っている。 
 この最後の特性を言い表すために、「事象」は不連続に分離したものであり、[心の]つながりには利用できず、そのため想起にもまったく利用できないと仮定して、私たちは「事象(events)」と「経験」との間に区別を設けたいと思う。

 したがって、中核的自閉状態の現象学として記述され、行動という形で現れるこれらの事象は、自閉症の子どもが経験として理解するには適していない。なぜなら、経験は、現在という、想起と予期の間の圧縮された極微の瞬間という特徴的な構造を持つからである。いったいこれは、どうやって起こるのだろうか?私たちは「分解する(dismantling)」という用語を用いてきたが、分裂(splitting)過程とはっきり区別するために、今や正確な意味をこの用語に付与しなければならない。

 分裂過程は、つながること(linkig)を攻撃する目的で破壊的衝動を行使しているのだと解釈される。このような攻撃は、主として、一次的には直接的に対象群に向けられており、自我、あるいはもっと正確にいえば自己の、分裂という結果は二次的にもたらされるだけである。この二次的な分裂は、領土争いをしている二国間の紛争領域が分断されると、全住民の分裂に拍車がかかるのと同じ具合で、対象における分割の結果のように見える。つまり、対象が分裂されると、それぞれに分裂された対象への忠誠心のために、自己は(幾何学的意味で)[それぞれの分裂された対象と]相似形のばらばらの砕片へと分裂していく。このようなわけで、対象の一次的な分裂−理想化機制が、自己とその衝動を良いものと悪いものに分割するために必要条件になるのである。

 私たちは「分解する」ということを、まったく違った含みを持つまったく別の過程の一種として理論的に考えている。それは能動的にというよりもむしろ受動的に起こるように見え、また、天候の変化やコケやカビや昆虫などによってレンガの壁の継ぎ目のモルタルが浸食されて、壁がばらばらに崩れていく様子に似ている。分解は、その時に最も刺激的な対象に付着するために、特殊なものも一般的なものも、あるいは内的なものも外的なものも両方含めた、あらゆる感覚におぼれることによって生じる。その時もっとも鮮やかに彩色され、もっとも人目を引く形をして、もっとも芳しい香りを放ち、もっとも喧しく、もっとも美味で、もっとも柔らかくもっとも温かな感覚が、すべて同じ一つの外的な現実の対象から発せられているとしても、それはただ単に偶然同時的に発生したに過ぎない。母の胸に抱きかかえられている赤ん坊を除けば、このような感覚的経験は、おそらくあらゆる瞬間にさまざまな対象から発せられている可能性がきわめて高い。そしてそこにカリスマ的な芸術作品や人が含まれているのでなければ、それぞれの対象に[万遍なく]注意を[払う]だろう。