うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

浜松でうどんと、すろーじゃむと、【子どもの心に我々の言葉や思いが届く瞬間が訪れる。たいていのセラピストにとって、この瞬間の感激が以後の苦しい心理療法を継続させるモチベーションになる。】

 今日も、シフトは事務仕事で入っていましたが、日中の職員さんの体調が悪く、外出の同行をさせて頂きました。

 皆さんの希望、「うどん」・「浜松」で、結局、先週と同じく志都呂のイオンになり行って来ました!
10時に到着したので、食事の時間まで広い店内を散策?探索?で、お決まりになってしまっている(笑)グラサン(笑)でポーズもやってきました!
 御陰様で、今日も12,000歩あるけました!


 田原に戻ってきて、大きなお風呂に入りたい!で、すろーじゃむの大きなお風呂に5人で行って来ました。
まりちゃん以外は気持ちよく入っておられました。
 お風呂のお湯が溜まるのに(大きいので)時間がかかるのでその間にジェンガをしたり、

 ベッドで横になったり、今日はのんびりしました。
世間さんは、ゴールデンウィークなのですね!ゴールデンウィークとは関係のない仕事ばかりやってきたので、昔から実感がありません。


 今日、ブドウをよく見たら、花芽が出ていたので、慌てて棚を作らないといけませんね!
上手く行ったら、秋には美味しいブドウが食べられるかも?です(笑)
 その前に、イチゴですね! 予報が外れて、雨があまり降らなかったので、イチゴには沢山水をまいてきました!


 

 今日も早めに出て、うたたね横のファミマで『自閉症とパーソナリティー』を読み終えました。
沢山アップさせて頂きたい箇所がありますが、あとがきでまとめて頂いているので、割愛させて頂きあっぷさせてもらいました。本当に良い本でした。皆さんにも読んで頂きたく、明日うたたねに持って行き、書庫に入れます。


 下記は、本当にそう思います。

『そういった自閉的な鎧(殻・虚ろな砦)の隙間を通して、子どもの心に我々の言葉や思いが届く瞬間が訪れる。たいていのセラピストにとって、この瞬間の感激が以後の苦しい心理療法を継続させるモチベーションになる。』
 


 下記は、障がい者の制度はまだまだ確立されていなくて、現場より、現場をしらない、相談支援が偉そうに(笑)決めたがることがしばしばあり困っています(笑)
 きちんと仕事をされている相談支援もいるのは、承知していますが......。
 ご本人・ご家族そして現場の声をまとめて、その方に合った、より良いサービスに結び付けていくのが相談支援の本当の役割ではないのかな?と感じる時が多いのはなぜでしょうか?そんな時、障がい者を取り巻く状況の切なさを感じるのは自分だけでしょうか?この地域だけでしょうか?

『もちろん、だれにとっても納得できる「科学的に正しい解釈」は存在しない。フロイトが夢解釈において読者に請うていたように、クライエントの「身になって」想像するしかない。そして、解釈の妥当性を第三者が判断する際には、週何時間も、何ヵ月も、何年もクライエントと会いつづけてきたセラピストの見解をまず尊重する(しかし、絶対視しない)ことが理性的かつ倫理的ではなかろうか。』


 下記は、サリヴァンを思い出しました!
 言葉ではなく音声でしたか?(いい加減ですw)

『こうした解釈の効果は、ヴァーバルな正確差よりも、ヴォーカルなタッチにあるかもしれない。リードの温かい声がサリーを包んだとき、サリーは自閉の鎧の紐をいくぶん緩める。固く閉じられた貝殻がわずかに開かれるのだ。』


 下記は、先天的な自閉症者に対しての言葉でしょうか?
最早期にトラウマを受けた方々にも当てはまるのでしょうか?

自閉症心理療法とは、単に症者の成長ではなく、関係の改善なのである。』


訳者あとがき 倉光 修
〜ここで、インプリンティングとの関連で、自閉症の子どもの愛着についても付言しよう。自閉症の子どもは一般に通常の愛着が形成しにくい。彼らの多くは、母親に抱かれると、身を固くそらしたり、迷子になってもまったく動揺しない。そこで、研修者の中には、「自閉症の子どもは母親に愛着を示さない」と断言する人もいる。しかし、これもまた事実ではない。実際は、多くの自閉症の子どもが母親に強い愛着を示す段階がある。むしろ、母親やセラピストに対する愛着形成こそ、彼らの心理療法過程の第一歩だと言ってもよいだろう。 

 では、愛着形成に貢献するという視座から見れば、精神分析的アプローチの特徴はどこにあるだろうか。私は何よりも、子どもの内界を共感的に理解し、言語化しようとする情熱的なまでの努力をあげたい。彼らはそれを伝統に従って、「解釈(interpretation)」と呼ぶ。しかしながら、自閉症の子どもの発語や行為は、たいてい、容易に解釈を許さない。セラピストたちは言う――「『それはこういう意味なのね』などと言ってみても、ほとんど何の役にも立たなかった」(p.217)、「意図や行為の意味を確かめようとすると、我々はしばしば“意味がないのではないか”という感覚に襲われる」(p.12)「このような解釈は何の助けにもならなかった」(p.202)。
 けれども、そういった自閉的な鎧(殻・虚ろな砦)の隙間を通して、子どもの心に我々の言葉や思いが届く瞬間が訪れる。たいていのセラピストにとって、この瞬間の感激が以後の苦しい心理療法を継続させるモチベーションになる。〜


〜こうした解釈の効果は、ヴァーバルな正確差よりも、ヴォーカルなタッチにあるかもしれない。リードの温かい声がサリーを包んだとき、サリーは自閉の鎧の紐をいくぶん緩める。固く閉じられた貝殻がわずかに開かれるのだ。
 解釈は、牽強付会に見えることもある。たとえば、ジョーが「窓のボルトが何個かなくなっている。誰か入ってきたの?」と言うとき、セラピストのエドワーズは「もしかして、休みの日にここに押し入ったら、休暇によって奪われたセッションを取り返せると考えているのかな」と返す。このような解釈は読者を戸惑わせるかもしれない。私なら「ジョーと僕だけの部屋に誰かが侵入して来たら不快だよね」などと言うにとどめるだろう。しかし、たとえば、エドワードがお母さんカンガルーと赤ちゃんカンガルーを一緒にテープでくっつけたことを、母親的存在をつなぎ止めたい気持ちの反映と見るのは、リーズナブルではなかろうか。
 もちろん、だれにとっても納得できる「科学的に正しい解釈」は存在しない。フロイトが夢解釈において読者に請うていたように、クライエントの「身になって」想像するしかない。そして、解釈の妥当性を第三者が判断する際には、週何時間も、何ヵ月も、何年もクライエントと会いつづけてきたセラピストの見解をまず尊重する(しかし、絶対視しない)ことが理性的かつ倫理的ではなかろうか。心理療法の事例研究は、条件統制をしたデーターから要因を抽出する狭義の科学とは言えないだろう。しかし、もし「科学」という用語を広く使うなら、あるいは、古い科学から新しい科学への発展を考えるなら、そこに個性的現象から普遍的心理への道を模索するパラダイムを含めてもよいのではなかろうか。自閉症からの成長と同じように、科学はある程度の曖昧さを許容することによってより豊かに発展するのではなかろうか。


 最後に現実に戻ろう。自閉症の子どもも、精力的な心理療法や教育によって、ある程度の愛着や社会性が形成される場合があることを読者は目の当たりにされたであろう。しかし、再び繰り返すが、ほとんどすべてのケースにおいて、愛着対象が非常に断片的で恒常的な範囲に限られる傾向は生涯続く。母親が疲れたり、叱ったりすると、あるいは、セラピストが休暇をとったり、転勤したりすると、彼らは激しい苦痛に苛まれる。そして、ときには、それまでの絆が切られそうになってしまう。彼らの中に愛着対象の安定したイメージ、すなわちワーキングモデルが内在化して、どこにいても、安心して暮らせるようになることは、ほとんど絶望的に見える。しかし、ここでもやはり事態は程度の差である。我々「正常者」でも、災害や戦争、破産やリストラ、重病や重傷を体験してなお、安心立命という人はごくごくまれだろう。 したがって、我々の課題は、こういう敏感な人と普通の人がいかに共存し、いかに豊かな相互作用を展開できるかということにある。自閉症心理療法とは、単に症者の成長ではなく、関係の改善なのである。〜