うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

頭が腐ったので一服と、【3.隠喩の視点と自閉症養育】(精神分析と自閉症より)


 今日は、法人の事務をやっています。
事業計画をやっていて、収入・支出の予算を立てていましたが、頭が腐ったので(一応できましたが....)床に寝そべって伸びをしてから、近所のサークルK(まだファミマに変わっていません)さんに3個100円の大福餅を買って来て(笑)お薄を点てました。
 本当に数字に弱くて、参ってしまいます.....。


 一つ目の牡丹は満開! 明後日くらいには二つ目が咲きそうです!玄関を出ると、花の匂いが強烈にします(笑)

 たんぽぽの種子はきれいに飛んでいき、枝は萎れてしまったので、つつじとひさかきを代わりに入れて見ました。(笑)いい息抜きになりました。

 総会(今回で10回目になります!)のレジメも、理事長の添削が入り、完成!
法人関係は後、会計事務所さんから、収支報告書がくるまで待機です。
 親分は夜勤明けで、日中の方の面談でした。代わりに行くと言ったのですが、断られました(笑)
そんなにしょっちゅう怒っているわけではないのですが......。みなさん恐がるとのこと......。
こんなに優しいのに....。まあ自分では気づかない間に、資質に欠けていたり、勉強もろくにしないで偉そうにいってくる人には言いたくれ言っているかもしれません.....。
 凄い!自分の事を棚に上げて(笑)


 本も少しだけ読ませていただきましたが、アップは昨日読んだ箇所です。
暫く現場に沿った箇所です。次回はTEACCHです。

 少し前に読ませて頂いた、精神分析認知行動療法が出会ったらの本を思い出しました!
薬に速効性のものと、緩やかに効くものとがあるように、心理療法も直ぐに結果を出さないといけない場面では、直ぐに結果が出るものを取り敢えず使って、落ち着いて来たら、持続性のある療法に徐々にしていけばいいのでは?と思います。どれが正解で、どれが間違いはなく、使う場面を吟味すればそれぞれの療法は非常に有効に思えます。

 下記のような「先行刺激」と「後続刺激」を明確にして、問題行動のあった方の支援を、日中の方と話しましたが、中々理解して頂けず、精神科医がその方を診てもないのに、精神科医にそうだんしたらこう言ったといって取り合ってもらえなかった時がありましたが、その方は、うたたねでは何とか支援出来ていましたので、残念でした。ノースカロライナに行った時は、誰の話でもまずは聞いてやってみるという姿勢があったので、羨ましいとおもったのも10年も前になりました。その時に頂いたTシャツに2007って書いてあったので(笑)中々忘れられません(笑)


『変更したいターゲットである「問題行動」の前に、どんな「先行刺激」があるのか、また、ターゲット行動はどんな「後続刺激」(対象者にとって有利な結果)を生み出すのかを見抜く必要がある。実験室ならぬ現実の錯綜した場面の中から、この三項を見分け抽出するのはむずかしいといわれる。それは「観察」とはいうものの、高度に能動的な営為なのである。』

 下記の最後の方の事例も参考になります。

3.隠喩の視点と自閉症養育
 もしも自閉症が隠喩の機能不全の問題であると見る考えが正しいとすれば、自閉症療育とは、隠喩の問題に立ち向かう営みと言えるだろうか。また、自閉症今日療育の実践的課題の中に、現代社会における隠喩をめぐる理論的問題を見出せるであろうか。そこで次に、近年さまざまに転回している自閉症療育法の一部を、隠喩の視点から垣間見てみたい。

❄応用行動分析
  応用行動分析は、実験心理学による行動の法則性解明であるB・F・スキナーの行動分析を臨床場面に応用したものである。したがって、自閉症の特質に特化した手法ではなく、ビジネスでの対人関係改善など、広くさまざまな場面で用いられる。ちなみに、行動分析という名前は、精神分析への対抗を意識して名づけられた(小嶋、2009,pp.103,104)。
 特質に特化した手法ではなく、ビジネスでの対人関係改善など、広くさまざまな場面で用いられる。ちなみに、行動分析という名前は、精神分析への対抗を意識して名づけられた(小嶋、2009,pp.103,104)。
 応用行動分析は、行動一般を「過去の学習により習得されたもの」として捉え、だからこそ、行動は変更や消去ができると考える(p.105)。自閉症のある人に社会性に関わる問題行動が生じた場合、それはなかなか修正されない。このような執拗な問題行動は、厳しく禁止したり内面に訴えったりすれば消えるようなたぐいのものではない。なぜなら、社会がうまく内面化されていなければ、言葉による禁止は効果をもたらさないのであるから。応用行動分析は、行動と行動の間に悪循環のメカニズムを発見し、心の中という変更困難な側面ではなく、行動のつながり方という変更可能な側面に介入することで、問題行動を引き起こす悪循環を断ち切ろうとする(p.114)。
 応用行動分析においてはまず、「行動観察」が重視される。ただし、「行動観察は、簡単にできるようで、実は、とても複雑で難しいことである」(p.108)。変更したいターゲットである「問題行動」の前に、どんな「先行刺激」があるのか、また、ターゲット行動はどんな「後続刺激」(対象者にとって有利な結果)を生み出すのかを見抜く必要がある。実験室ならぬ現実の錯綜した場面の中から、この三項を見分け抽出するのはむずかしいといわれる。それは「観察」とはいうものの、高度に能動的な営為なのである。例えば、ある事例では、自閉症のある小学生が教室であげる奇声がターゲット行動である。客観的な行動観察の結果、音楽や図工の時間に別教室へ移動することが「先行刺激」だと分析された。また、奇声をあげた結果得られる「後続刺激」は、教師や同級生がやって来て援助してくれることであると分かった(p.116)。結果的に、奇声をあげれば助けてもらえるというパターンが出来上がっていたのである。そこで、「先行刺激への介入」として、教室移動の前に、移動先を写真カードで事前に教えるようにした。また「後続刺激への介入」として、奇声をあげた直後に援助せずに、奇声をやめるまで見守ることにした(p.117)。その結果、ターゲット行動であった奇声は減少した、
 確かにこれは成功事例であろう。ただし、「応用行動分析に限らず、人と人との関わりのなかで相手の行動を変容させるためには、倫理的配慮と真剣勝負が必要となる」ことが忘れられてはならない(p.120)。また、行動変容が達成される前に一時的に問題行動が急増するという困難に直面する場合もある。冷静な観察と徹底した実践の組み合わせこそが、応用行動分析のかなめであるという。
 ただ、この成功事例においても一つ気にかかることがある。この場合、奇声という行動へのアプローチには成功した。だが、教室移動に強い不安を感じるメカニズム自体に肉薄したわけではないように思われるのである。あるいは、逆に考えるべきかもしれない。なぜ定型発達者は、絶対的な保証がない場合でも、未知に対する強い不安に圧倒されないのであろうか。むしろ定型発達者の心的メカニズムの方こそ謎ではないか。それはラカン精神分析で言えば、隠喩の謎である。
 応用行動分析は広く用いられている手法である。このアプローチは、隠喩の次元を括弧に入れて棚上げにし、換喩の次元にのみ操作を局限することで成果を挙げてきたのだと思われる。つまり、隠喩は不問に付されているわけである。棚上げこそ、応用行動分析の基本戦力であると考えるべきであろう。スキナー的な考え方に従えば、個人に、心のような「内的状態」があると想定すること自体、科学としては間違いなのである。なぜなら「内的状態」の想定は結局、説明の無限後退を引き起こすだけであるから。化学とは操作可能性の追求に他ならないこと考えるスキナーたちは「内的状態」の想定を排して、測定可能であるゆえに操作可能な行動に向き合おうとする(オドノヒュー/ファーガソン、2005,p.117)。それがスキナーたちの立場、すなわちラディカルな行動主義である。そして、ここでスキナーたちが棚上げした無限後退の問題こそ、隠喩と深く関わっている。
 スキナーたちの戦略は巧みである。しかし反面で、次のような指摘もありうる。すなわち「スキナーの研究は、進行中の行動に対するさまざまな介入効果に集中している。一番最初の行動がどこから生じるのか、ほとんど何も触れていない」と(p/231)。それゆえ、応用行動分析に対して批判が投げかけられる際に、隠喩に関わるような論点が焦点となるのは不思議ではない。行動変容という結果は確かに意味があるのだが、はたしてそれは主体のメカニズムそのものにアプローチしてるのであろうか。行動変容は、主体のメカニズムの変容なのであろうか。もちろん、ラディカルな行動主義の立場に立てば、このような問いかけ自体が無意味なのであるが。