うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

変な大根と(笑)と、今日の日中と、【5,否定性による隠蔽】(精神分析と自閉症より)


今朝は、少しだけ早め出勤。
途中で最近気になっていた、大根の写真がようやく(笑)撮れました。
 以下、時系列で写真をアップさせてくださいね。


  今日も日中賑やかなので、池ノ原には一番に行き、呈茶してます!の看板が出ていたのでかおちゃんと行ったら、10時からですとの事でしたが、9時過ぎでしたが、特別にお薄を点ててくれました!
 みなさんとよく行かせて頂いているので、点てて下さったのだと思っています。本当にありがとうございました! お菓子は、明日から5月なので杜若でした!
 送迎のミスなどがあり、朝から少しバタバタ感が自分にもあったので、こちらでクールダウンできました!

 午前中は、みなさんでカラオケに行っていたようです。
皆さん楽しまれたそうですので、良かったです!

 午後からは男子と女子に分かれて、行動しました。
男子は、蔵王山に行き、展望台で眺めを楽しみ、プロジェクションマッピングで少し遊びました!
規模は小さいですが、中々遊べます。
 その後、今日もすろーじゃむの湯に行きました!
男子が3人入っても余裕です。大鍋で作る料理が美味しいように、大きなお風呂だとなぜか?お湯の肌触りがよくなり、初めてのまつおさんも気に入って下さり、最後、一人になった時には、体全体を伸ばして、気持ちよさそうに入っておられました!

 
 今日もファミマで、コーヒーを飲みながら少しだけ本を読みました。
難しい内容になって来ましたが、ラカンよりになれば仕方のない事ですね......
 今回は、逃げずに読もうと決心しました(笑)



 現実には触れることができないという概念は、分かるようで分からないですね.....。しかし、自閉症の方々と接することによって、隠喩・換喩という概念に近づけるような気もしてきます。
 下記は、自閉症の方が現実(世間)と向き合う時に感じることのように思いました。

『たしかに「現実を直接経験することはできない。しかしわれわれはさまざまな現実と出会ってはいる。できることは、ただ了解可能性の限界を決定して、了解不能な現実の外堀を埋めつつ囲い込むことで、間接的に受容することである」。』


 取り合えず、次に本を購入する時のリストに、村上靖彦著『自閉症現象学』を入れようと思いました。難しそうですが....。

5,否定性による隠蔽
 ここまで、自閉症ラカン精神分析と結びつける可能性について論じてきたが、そのためのヒントとなる著作を紹介したい。それは村上靖彦自閉症現象学』である。題名から分かる通り、この著作は決して精神分析の立場で書かれているわけではない。しかしながら村上は本書で、「現実」という概念を独特の意味で導入している。「現実」とは、「了解・表象できない現象、対応できない得体の知れない現象」である(村上、2008,p.58)。この箇所の註で村上は、ラカンの「現実界」に言及している。ただし、ラカンの考え方をそのまま採用しているわけではない。むしろ批判的な言及の仕方と言ってよいであろう。にもかかわらず私見では、村上の言う「現実」はラカンの「現実界」と似た面を持っているように思われる。
 村上によれば、定型発達者にとって「日常的なコミュニケーションが可能」なのは、空間的な側面で言えば、「得体の知れない裏側」の存在を、見えないものとして受け入れることができるからである。また、時間的な側面で言えば、「予測できない出来事」を、未来(未だ来ないこと)の形で受け入れられるからである(pp.97,170)。それができなければ、曲がり角の向こう側は迷宮のようなおそろしい場所になってしまうし、突発的なスケジュール変更は大きな不安を引き起こしてしまう。言い換えれば、「現実」を「否定性という論理構造」によって「隠蔽」することが必要なのである。否定性の論理構造のおかげで、「現実が指示対象へと回収され」、「現実についての思考が可能になる」(pp.97,147,171)。 たしかに「現実を直接経験することはできない。しかしわれわれはさまざまな現実と出会ってはいる。できることは、ただ了解可能性の限界を決定して、了解不能な現実の外堀を埋めつつ囲い込むことで、間接的に受容することである」。村上はこれを「現実の次元化」と呼ぶ。これはまた「知覚と空想の区別」にも深く関わっている。ところが自閉症のある人の場合、「この構造が創設されにくい」と村上は言う(pp.91,92,97,116)。〜

〜先述したように、自閉症のる子どもは、ミニカーで遊ぶ場合でも、ごっこ遊びのような使い方ではなく、ミニカーを精密に並べて楽しむことが多いと言われている。村上はこの種の遊びについて説明する際に、カントの言う「構想力」という概念を用いる。それによれば、水平方向に並べられたミニカーの列は、「純粋な構想力」によって「『形の増殖機能』が単独で作動」した結果なのである。このような遊びを通じて子どもは、独特の世界の中で楽しんでいる。その世界とは、「外部を指示することのない模様」からなっており、「イメージの連鎖そのものが意味であり価値であるような世界」なのである。それに対して、定型発達の子どもの場合は、遊びを通じて「空想されているイメージの連鎖を超える『何か』について語っている」。言い換えれば、「表象不可能な、そして不可知の部分を核としてもつ現実と関わっている」(村上、2008,pp.113-117)。
 このことは、ラカン精神分析の言葉で言えば、次のように言い換えられるであろう。すなわち、自閉症のある子どもにとってのミニカー並べは、純粋に換喩的な「シニファンの連鎖」であると。つまり、そこで隠喩が通常の形では作動していないのである。