うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

愛知県育成会療育キャンプと、【第6章 考えを考え得るものにすること――摂取と投影についてのパースペクティブ】

今日は、療育キャンプで長野県に来ています。
お天気の心配していましたが、快晴☀です(* ̄ー ̄)が、非常に暑い😱☀です( ̄▽ ̄;)
 最初は、ちこり村( ̄0 ̄)/
みなさん、試食されていますが、自分は仕事なので、我慢です。






 昼食はかぶちゃん村( ̄0 ̄)/
諏訪大社に行きましたが、信州らしからぬ?猛暑日(/--)/旅館は山の中❗おそらく電波がなくなりそうなので、早目にアップします。( ̄▽ ̄;)
 



境内では、扇風機がスプリンクラーになっていましたが、暑さには何の役にも立っていませんでした.....。




暑さに負け…ソフトクリーム食べました。ところてん屋のオジサンが、写真とろうとしたら、持ち上げてくれました。

 バスの中で、本が沢山読めるかな?と思いましたが、無理でした。|(-_-)|

 愛知県の各地域から来ておられるので、見させて頂くだけでも、勉強になります。
 本は、第6章が終わりそうですが、最初の部分のアップです。次回の予習みたいな感じで、少し難しいですね。
 この章も、非常に勉強になります。










第6章 考えを考え得るものにすること">――摂取と投影についてのパースペクティブ

 

 この章では、精神分析の知見と乳児の認知に関する研究者たちの知見とを、精神病の子どもとの心理療法上の技法の問題に願わくば関連させて、統合することを試みたいと思います。こうした知見のうち、もっとも重要なものは、精神分析によってかねてから示唆されてきており、そして、今や子どもの発達研究によって、確証を与えられています。それは、つまり、情動や認知の発達という点では、赤ん坊は、一貫した養育者すなわち「生きた仲間(live company)」を体験し、相互作用をもつ必要があるということです。治療者にとって主要な技法上の問題は、概して体験を自分のものにすることが難しく、また特に、生きた人間である対象についての体験を自分のものにするのが難しい子どもたちに、いかにしてそういった体験を提供するかということです。この技法上の問題からは、学習にとって摂取と投影の機制が決定的に重要であることを強調する精神分析のモデルを拡張する必要が出てくるかもしれません。

 こうした拡張は、体験がもたれ、その体験が眺められるようなパースペクティブを考慮にいれた見解によって得られるかもしれないと思います。その見解とは、対象の利用可能
性(availability)、その近づきやすさ、つかまえやすさ、親近性、そして知覚的な追いやすさ(followability)などです。

 包容というBionの概念は、学習や摂取が生じる状況のいくばくかを示唆していますが、彼の概念は、おそらく、もっとも心的な場合ですら、何か凹面のようなもの、母の膝のような心と隠喩的な結びつきを持つ傾向があります(Grotstein  1981a参照)。しかしながら、包容するものは、時には心をなだめるものですし、時にはもっと堅固なものとみなされます。私はすでに、母親対象は、子どもをひっぱり、その注意を引き、子どもを魅惑し、子どもに興味を抱かせるものとしても、みらねればならないと述べました。ここで、別の要素を強調したいと思いますが、それは、もっと視覚的で、感触的な意味で異なったメタファーを含み、膝や自分を包んでくれる腕といったものとは全く異なったメタファーです。これは、特に最早期には、母親の顔や乳房といった対象が、乳児に満足がいくように顔が見えるぐらい、また乳房が乳を飲むのにちょうどよい距離で提示されることが乳児には必要だという、現在知られていることに由来します。