うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

大阪と、【なぜ、常同行為のスイッチは切られないのか?】


 大阪にいると、普段の自分が嫌になって来ました。なんか小さな世界でばたばたして、小さな世界しか知らない人たちが偉そうに仕切っていて、それに頑張って抵抗している自分が、なんかちっぽけで情けなく感じました。
 帰巣本能か?せっかく残りの人生頑張るなら、必要とされていたり、自分の故郷でもう一旗あげたい気持ちが強くなりました。


 ノラ・ジョーンズは、凄すぎてコメントができません......。
ほんまもんというのは、ああいうのを言うのですね。
 ピアノを弾きだすと、その瞬間に彼女の世界に1万人くらい?(もっとか?)の聴衆が引き込まれていました。
先発投手のように?出だしの歌声は、風邪をひいたのかと心配になるくらいでしたが、中盤からはがんがん響いていました。彼女のギターも中々素敵で、ギターのファンでもありましたが、生で聴くと本当にフェンダーの音色がしていました。張りがあって、シンプルですが、効かせどころでは欲しい音がきちんと入っていて、バッキングの見本のようなギターです。
 バックミュージシャンも素晴らしい方ばかりで、オープニングのドラムのリズムに心の全てを持って行かれてしまいました(笑)もう死んでもいいってくらい素晴らしいリズムでした!
 PAも勿論です!最近はタッチパネルでミキシングしていますね。開演まで、ステージの近くやPAの近くでセッティングなど、じっと見させていただきました。




 早めの昼食を母親と摂って、早々と帰って来ましたが、自宅に着いたのは17時前でした。
 新幹線だともう少し早く着くのでしょうか?高いので近鉄で辛抱ですね(笑)途中、奈良で降車したくなりますが(笑)京橋から環状線で鶴橋まで来て、近鉄に乗り帰って来ました。

 昨夜は遅くまで弟と京橋で呑んで沢山昔話をしました。弟がまだ小さい時に、自分は京都に出たので、実家の事は知らないことがまだまだ沢山あるようで、お互い話しが尽きませんでした。

 関係ないですが(笑)自分の曲を大阪でヘビーロテーションで流していました(笑)天王寺周辺で聴いたら、やっぱり親和性がありました。環状線沿線?は、めちゃくちゃ合います(笑)


 帰りの電車でも本を読みましたが、アップはまだ第5章です。

 最早期に起こったことは、器質的なものとの見分けが難しいので大変そうですね.....。

『沼地でない土地、安定した大地、しっかりとした壁を我々は期待する。こうしたものが何もないよりは、昔から親しみのある習慣?落ち込むことで一時的な安全感や平衡感覚を得るほうが、まだよいのかもしれない(ギマラエス・フィリオ[Guimaraes Filho,P.D.]は、“自閉対象”への儀式的とらわれは、最早期の敏感期に生じる刷り込み[impriting]が間違った方向に行ってしまったものとして見ることができるのではないかと示唆している)。』


  
 下記も本当に現場に沿った文章です。逆転移の利用は、やり方次第で本当に使えそうですね。

『なぜ、常同行為のスイッチは切られないのか?我々は、こうした子どもたちがスイッチを切ることを学び、何か他のもののスイッチを入れるのを学ぶよう、手助けできるだろうか?ここでセラピストは、逆転移の中で起きてくる退屈という自分自身の感情に十分気づいている必要がある。それは、子どももその行為によって退屈していることにセラピストが気づくためではなく(ときにはそのような場合もあるが)、子ども自身が退屈していることに気づかないか、あるいは、わかっていても、その行為をどのようにして止めたらいいのかわからないのかもしれないからである。常同行為は、最も少なく見積もれば、単に続けることに意味のある一つのやり方になっていくのである。』


◆反復行動の動機とプロセス
欲求(need)と正常な動機:自閉症の人は常同行為(ritual)を必要とするか?
 
メルツァーらは、自閉症の常同行為は、強迫神経症の儀式行為(ritual)と比べるとはるかに原初的なやり方であると指摘し、不安に対する防衛というモデルを却下した。彼らは、もっと深いところで何かが起きていると考え、セラピストがコンタクトを取り戻すために、宙に浮いているような子どもの注意を起動させることを推奨した。また、タスティンは、掴まえどころのない、あるいは回避的な反応について言及したが、防衛という用語よりも“保護的手段(protective manoeuvre)”という言葉を好んだ。常同行為はやんわりとやめさせる必要があると感じたのである。タスティンもメルツァーも、原初的でカタストロフィックな抑うつについて言及している。しかし我々は、そうした“ブラックホール”タイプの抑うつを示す患者には数例しか出会っていない。抑うつは不安とはかなり異なったものである。本書に登場する患者のすべてが、潜在的抑うつを呈してわくではない。しかし、彼らは皆、たとえば、社会的つながりの楽しみや安全感を求める欲求、コミュニケーションの欲求など、普通の心理的欲求をみたす方法に欠陥を呈しているのである。不幸なことに常同行為を行うと、いくらかそれが不適切であっても、このような欲求に対して部分的な充足が得られる。これが、自閉症の常同行為を変化させるのが難しい理由の一つだろう。常同行為は防衛的だから、ではなく、保護的だからこそ、いくら不適切であっても、ちょうどよい報酬が得られるのである。タバコを吸うことは何の栄養も与えないが、嗜癖という意味では、何かを口に入れたいという普遍的な欲求を満たす。タスティンは、自閉対象は刺激を遮断するために用いられると指摘したが、我々はそこに何かを取り入れるという機能も付け加えなければならない。そして、我々は危険を覚悟で後者の要素を無視するのだ。それに取って代わる何かを(通常は素早く)提供することなしに、子どもの常同行為を取り払うことはできない。〜

〜沼地でない土地、安定した大地、しっかりとした壁を我々は期待する。こうしたものが何もないよりは、昔から親しみのある習慣?落ち込むことで一時的な安全感や平衡感覚を得るほうが、まだよいのかもしれない(ギマラエス・フィリオ[Guimaraes Filho,P.D.]は、“自閉対象”への儀式的とらわれは、最早期の敏感期に生じる刷り込み[impriting]が間違った方向に行ってしまったものとして見ることができるのではないかと示唆している)。〜




◆逸脱についての追記――嗜癖から常同行為へ

 〜なぜ、常同行為のスイッチは切られないのか?我々は、こうした子どもたちがスイッチを切ることを学び、何か他のもののスイッチを入れるのを学ぶよう、手助けできるだろうか?ここでセラピストは、逆転移の中で起きてくる退屈という自分自身の感情に十分気づいている必要がある。それは、子どももその行為によって退屈していることにセラピストが気づくためではなく(ときにはそのような場合もあるが)、子ども自身が退屈していることに気づかないか、あるいは、わかっていても、その行為をどのようにして止めたらいいのかわからないのかもしれないからである。常同行為は、最も少なく見積もれば、単に続けることに意味のある一つのやり方になっていくのである。
 私の患者ロビーとの経験では、特定の反復的没頭は、混乱や空虚感を克服する方法として始まったが、治療の後期には、純粋に新鮮な興味もった対象にさえなりはじめたのである。しかし、その後、それをやりつづけるための燃料は、混乱でも空虚感でもなければ、新たな興味でもない。それは、何か他のものなのである。ブロンズのように、常同行為は石膏が取り外された後でさえきっちりとその形を保持する。一度、鋳型が作られると、それをつなぐ薬剤はまったく変質してしまい、その行為が最初に始まったときの原因について、いくら単純に説明的な解釈を述べたところで、そのような分析には馴染まないだろう。反復行為は、ときにはドラッグのような働きをする。非常に強い誘因力をもっているのである。

〜彼の常同行為には、重力のような、あるいは巨大な吸盤のような吸着力があった。私はそれが固定される前に、その力と対峙しなければならなかった。さらに、怠惰な漫然さと執拗さは、奇妙な興奮に移っていくのだった。