うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

天王寺駅と、ノラ・ジョーンズと、【特別の二次障害:自己統制の一形態としての反復行動】



 今日は、早朝に大阪に向かい、ちょうどお昼に、天王寺駅に着きました。
 天王寺阿倍野は小学校の中学年に過ごした場所なので、思い出深い場所です。動物園は中学生まで無料だったし、難波ですが、今はなき、大阪球場も外野席は無料だったので、よく行きました。
 京都は、仕事も人生も修行してた感があり、気が引き締まりますが、大阪はほっとします。
 夏休みに走り回って、お腹が空いたら、デパ地下で試食(笑)
陸橋の上で虫を売ってるおじさんと話したり、きれいになった天王寺駅あべのハルカスを見ていても、そんな風景が、2重に見えています。


 電車の中で『自閉症とパーソナリティ』の第一部を読み終えたところで、窓外の風景を見ることにしました。
 祖母とよく来た、鶴橋駅で乗り換えて環状線へ。
酔っぱらいが苦手で、酔っぱらいを見たら、幼児の存在を忘れて一目散に逃げていた祖母でしたが、幼心にそんなに恐いなら、酔っぱらいがいるような場所を避けたらといつも思ってました(笑)トラウマでしょうか?
四天王寺さんも、祖母に連れられよくお参りさせて頂きましたが、あいにくのお天気(/--)/なので、天王寺駅の喫茶店で携帯の充電しながら、これを打ち込みました(笑)月曜なので、美術館なんかも休み…まあ、たまには、ゆっくりしても、バチは当たらんかもって開き直り、ゆっくりとコーヒ頂きました。


 コンサートが終わる頃は、雨風とも強いとの予報( ̄▽ ̄;)
終わったら近くまで、弟が迎えに来てくれる予定なので、助かります。コンサート会場から母親の家まで歩いても20分くらいですが、荒天そうなので、助かります。

 本は、自閉症とトラウマの第七章が終わり、第一部が終わりました。

 アップはまだ第5章ですが…
反復行為、常同行為の意味が分かれば、本当の支援方法が組み立てられそうですね。

 ノラ・ジョーンズと母親に会って来ます。

◆二次障害
 特別な二次障害:自己統制の一形態としての反復行動

 
〜第一は“他者に向けられた統制的行動”で、たとえば、怒りや不快感のために泣くことによって助けが必要であるということを養育者に示す。第二は、自己に向けられた統制的行動である。トロニックは、乳児は不快な感情をコントロールするのに、単に養育者に依存するだけでなく、目をそらす、自分を慰める、自分を刺激するなど、いくつかの対処方法をもっていると指摘する。目をそらすことで、ストレスがかかっているときの心拍数を減らすことができるし、指吸いによって不快感を軽減することができる。これらの対処方法をトロニックは“自己志向的統御行動”と名付けた。精神分析家は、このような行為が、世界との精神的つながりを維持し、以前に受けた良い養育体験を思い起こさせる健康なものか、あるいは、私的世界に強制的に陥れ、外界とのつながりを断ち切るような、不健康で危険なものかどうかを判断しなければならないだろう。
 自閉症の子どもが、特に自閉症から脱却して新しい経験へと動きだそうとしているときに、自分を落ち着かせるために常動行為を用いるのは珍しいことではない。このような状況下で、私はサミュエルの常動行為が増すのを目撃している。〜



興奮を統制し、取り入れを促進する他者
 
〜私がしようとしていたことは、野蛮なほど忍耐のない、しかも、必死で助けを求めているこの小さな男の子にとって、脅威的で退屈な、耐えがたい空虚な空間を、希望を含む何かで埋めてやることだった。そこには、一種の快楽的苦しみをもたらす要素も含まれていたが、それは遊び心に満ちていたので、何とか耐えられるものだった。彼にとっては、単に課題をこなすというのは、欲求不満を引き起こすか、あるいは退屈すぎ、平板すぎ、感情的なものでさえあったのだ。しかし、期待の高まりは、それが高すぎたり低すぎたりしない限り、彼をつなぎとめるようであった。彼は待てなかったし、順序に耐えられなかったが、この期待感は、それを捉え、調和させ、また、ゲームにすることによって調節しているようでもあった。
 音楽家音楽療法家は、たとえばタ・ラ・ラ・ボーン・デューといった音をアナクルーシス(anacrusis)としてダイナミックなリズムを作っていくというのでたぶん、サミュエルはこの種の基本的な体験をしていたのかもしれない。ビオンは、人は現実に侵入するのではなくて、現実を調節することを学ばねばならないと述べている。しかし、我々が現実を調節しなければならないときもあるが、現実自身が調節していくときもあるだろう。生きて動く対象は、常にそれ自身でも調節するし、また乳児によっても調節されつづけるものである。典型的な発達を遂げている赤ちゃんなら、現実は調節可能でもあり、調節不可能でもあるという両方の体験をしているものである。〜

〜かなり早期の発症が自閉症の子どもをさらなる発達過程の逸脱へと向かわせる。自閉症の程度がそれほど深刻でなければ、セラピストが解釈を通じてこのような不安や耐えがたさにアプローチすることが有効かもしれない。しかし、サミュエルがかなり早期の、ときには出生直後の発達レベルで世界と関わり、非常に絶望的になっているような場合には、言語的な解釈だけでなく、何か他の行為を同時に行う必要があると私は理解するようになった。
 ときには、セラピストは、気分を落ち着かせるのに、自閉的でも常同的でもないやり方を提供する必要があるかもしれない。サミュエルは最初は私を拒否していたが、やがて、自分のいらだちや欲求不満からの逃避場所として私の膝の上に乗りたがるようになる時期が来た。膝に乗ると、親密なアイコンタクトさえしばしば生じた。けれども、彼は官能性の高い(sensual )子どもだった。時の経過とともに、私は、彼が数インチではなく数フィートの距離であっても、顔と顔を見合わせたコンタクトに十分関心を示すだろうと思うようになった。そこで私は、自分の側に小さな椅子を持ってきた。彼はこの椅子に座ることができるはずだと思った。しかしそれを使うよう彼を説得するのに、何と6カ月もかかったのだ! 最初彼は、私から拒否されたように感じ、それからほかの多くの子どもがそうするように、自閉症に逆戻りしがちになった。私は、ある意味で交通整理の警官のような機能をもたねばならないのだと気づいた。つまり、一方では彼の身体的侵入を止め、他方では椅子に誘って、私たちは、“話す”ことができるのだと示唆するのである。〜