うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昨日の水仙と、夜のうたたねと、【3)フェルトン(1985)は、10年以上にわたって自閉症児とその母親に濃密に関わって、「浸透圧による流失」(osmotic overflow)や「圧力」と彼女が呼ぶ過程があることを見いだした。】(治療の行き詰まりと解釈より)


 夜勤明け、親分に連れまわされ(笑)車で寝ていました....。
昨日の水仙がまだ元気なので、場所を玄関に移して、お薄を頂きました。
 達磨さんは、年末チャリティー用にオークションで落としたものですが、落札金額は言えません(笑)
親分認可の物ですので、御察しの通りです(笑)





 最近、夜のうたたねは、ドリルが流行って?います。
無理強いはしていませんが、テーブルにあるとみなさんされていたり、全部終わったら裏に絵や文字を書いたり、描いたり。それが中々個性的で素敵です!
 おそらく、女性職員さんが、ご自分のお子さんのドリルを持って来てくれたのが始まりだったと思われます。
ネットで無料でドリルが落とせるので助かっています(笑)





 名古屋行きの時に読んでいた箇所のアップです。自分的には復習ですが、復習しないと直ぐに忘れてしまうので、自分の為に?アップしました(笑)時間待ちの時に、携帯で調べたりしていますが、相変わらず、誤字脱字が多いですね......。
 次はタスティンを読ませて頂こうと考えているので、自分的には予習にもなっています。




3)フェルトン(1985)は、10年以上にわたって自閉症児とその母親に濃密に関わって、「浸透圧による流失」(osmotic overflow)や「圧力」と彼女が呼ぶ過程があることを見いだした。それを通して、母親のなかに存在はしているが耐えがたいほどの不安を引き起こすため、母親がそれを隠して目を覆ってしまいたいと思っている感情、体験、記憶が、妊娠中に胎児がいることで活性化され、圧力が加えられるようになる。母親には知られずに、この問題を引き起こす要因は胎児に「漏れ出す」。彼女はこの過程をコミュニケーションや投影とは正反対のものとして記載した。というのは、母親が永遠に隠そうと決めたものがただ流出するだけで、交流を計ろうと圧力が加えられることはないからである。観察者を困惑させるのは、子どもがこの過程に深く影響される事実である。興味深いことに、ビオンも同様の問題を引き起こす過程を観察しているが、青年期や成人期の危機の際に意識に立ち現れて、突然圧倒すると考えている。 
 胎児や後の段階における乳幼児は、自分に流れ込んで不安や矛盾に満ちた気持ちで満たす「圧力」には完全に無力であり、自閉的な行動パターンが表出される。子どもはその際、自分が異邦人で、他のだれとも違うと感じる。彼は、何が起こっているか知り理解することは、圧倒する秘密の強い圧力のために、許されないことと感じる。母親がしゃべりかけてもまるで聾のごとくきこえなうようであり、母親から離れていったり、グルグル回ったり、意味もなく動きまわる。子どもの身体過程のなかで、母親と関係を持っていることを示すものは何もない。彼の姿勢は、しばしば圧迫されて、圧倒されている兆候をあらわし、あたかも自分自身を支えきれず、生きることも許されていないかのようである。彼は締まりなくなく見え、床を這いまわる。子どもは、自分には内的空間がないという兆候を示すが、自分が存在し動くために、どうにか手立てを作ろうとする。例えば、ある子どもはある一定時間メロディーの流れるテープを集めており、自分が家のあるところから別のあるところまで動くとき、ちょうどそれだけ歩くのにかかる時間の長さのテープでメロディーを流した。より長い距離を行くときにも同じ過程が見られたが、テープレコーダーと注意深く選ばれたテープがないと彼は動くことができなかった。「浸透圧」から身を守るために、この自閉症の子どもは封鎖するメカニズムを用い、圧力が自分に入るのを防いだ。子どもは、母親が自分にとって危険で排除しなければならない存在と分かっていたので、絶えず母親が混乱を起こす反応を予測しシャットアウトしていたように思える。この封鎖とシャットアウトの過程は、当然子どもは何であれほとんど自分のなかへの進入を許すことができないことを意味するが、この子どもが生きていくには明らかにこれが必要なのであった。徐々に子どもが防衛的でなくなると、母と子の相互作用のある側面はより容易に観察された。母親は自分が無視してきたと感じていた自分の母親に対して、罪悪感と責任を深く感じていた。彼女は隠しておきたかったこの考えに非常に困惑しており、この隠された考えが今では子どもと結びついたと感じたので、自分がこの世に送り出した子どもを恥じたのである。話し始めるようになってから、あるときこの自閉症の子どもは、母親を失望させているのではといつも深く心配していると言った。「僕、がっかりさせてないよ。がっかりさせたくないんだ」と何度も何度も繰り返した。母親はそれをあまり気にかけず、なぜ子どもがいつもこんなふうにはなし続けるのか理解しなかったが、子どもは母親自身が認めるこのできない罪悪感のたいそう強い圧力の下にあったため、母親を失望させたくないと際限なく繰り返す以外は、明らかに何もできなかった。私がここで報告できるのは、フェルトンの重要な仕事のごくわずかの点だけであるが、それでも精神病患者をよりよく理解する助けにはなると思われる。
 スタイナー(Steiner 1975)は、投影性同一視にはいくつかのタイプがあり、出生前を含む子どもの発達のさまざまな異なる段階にそれぞれ属していると強調している。同じ論文で、彼は生まれて数時間の赤ん坊が3か月、6か月などの子どもと同じような投影をするとは思えないと強調している。彼は、それを介して投影が行われる種々の感覚――臭い、音、香り――や、投影が働く際の加速度を考慮しなければならないと言う。彼はこの病的な、あるいは吐き出すための投影ですら非常に原始的なコミュニケーションのやり方であるとの自分の描くしを強調している。最近の末刊の論文でスタイナー(1982)は、原始的投影過程は、相反する感情が行き交うコミュニケーションの「浸透システム」をイメージすることで理解できることを示そうとし、この「浸透システム」は子宮のなかで何が起こっているのか理解する助けになると主張した。彼は投影性同一視の最も原始的な形態は、子宮内でのコミュニケーションシの浸透システムの名残であると実際に考えている。フェルトンもスターなーと同じ記述用語、すなわち「浸透圧」や「システム」をこの早期過程に用いていることは興味深い。フェルトンは、浸透圧は母親の不安な感情や思考の単なる流出であること、すなわち隠されたものであり、それゆえ反コミュニケーション的性質を持つことを大変強調している。一方、スタイナーは、浸透過程のコミュニケーションの価値を強調している。もしフェルトンの観察が正しいとすれば、分析場面で「浸透圧」を用いる子どもや成人の患者は、分析家に大変な混乱を引き起こし、分析家は患者が送るものをコミュニケーションの一種として受け取ろうとするならば、絶えず誤解し、誤りを教えられたと感じることになろう。そして患者の側でも分析家の隠された精神過程の一部が自分のなかに押し込まれて、膨大な破壊を起こすことを感じ、混乱し圧倒されるであろう。
 タスティン(Tustin 1972,1981)は、「あふれ出ること」は投影の前駆体であるというヘルマン(Hermann 1929)の示唆を用いて、あふれ出て一つとなることは原初の統一体という幻想を持続させる過程であると主張した。出産という中断があるにもかかわらず、子宮の中にいる感覚から外にいる感覚へと、全く突然に変化することはある得ないという考えは筋の通ったものである。触覚による「水性の媒質のなかにいる感じが、そのまま続いて子どもの外界の最早期の体験のなかに持ち越されるようである」(Tustin 1981:80)。精神病の子どもとの関わりを通して、タスティンはあふれ出ること、心理的生理的緊張がこぼれること、すなわち子どもには実際に身体の中身が制御を失って流出すると感じられることの重要性を観察した。
 ビオン(1980:104)は書いている。「分析的探索を行う際にわれわれはは、メラニー・クラインが投影性同一視として記載したものが出生前ですら起こるという事実に注意を払わなければならない――すなわち、胎児は原初の感覚に気づくことができると想定される」。
 彼は、出生前でも胎児は彼の言う「出来事」に敏感であるという「創造的推量」(imaginative conjecture)の概念を述べている。出来事とは脈が打つ感覚や、ある種の血圧のようなもので、彼は「圧力が羊水やときには細胞外液のような液体を介して伝達されているものをいう。彼は「圧力が羊水に伝わり、視覚や懲悪の窪みを刺激するような状況を想像することができる。……私は三、四〈体節〉(somites)期の胎児でさえ、やがて〈感覚〉と呼ばれることになるものを体験していると思う」(1980:100)。後のページで彼は次のように述べている(p.100)。


 胎児でさえ血液が脈打つ感じを嫌うであろうことは想像できる。同様に、アドレナリンが産生される初期の段階の影響や、他の発達しつつある機能の影響を嫌うであろう。潜在的に敏感であるか知的であればあるほど、この感覚を「意識する」といってよいことが起こり、嫌ってそれから逃れようとすることが起こりうるだろう。


 胎児は発達でつまづき、「感情」や「思考」を持てなくなり、器官の重要な要素を欠いたまま生まれるかもしれない。しかし生まれてからの生命体は、知的活動への潜在力は保っている。ビオンはこの早期出生前状況が発達にどのように影響するかについての考えを表明しようと何度か試みた。彼が論じているこの状況では、意識と無意識の区別はあまり本質に光を投げかけないように思える。というのは、胎児が不快で歓迎されない原初の感覚を排除しようとしたときに初めて、それまで意識に上ったことのない「思考」や「感情」を持つからである。
せいぜい言えることは、この思考や感情がる利用できるものであるかどうかである。その起源においては、そういう思考と感情は手が届かないものだからである。したがってもう少し育った人を扱うときは、意識的、無意識的なものと、近づきえないものとを区別しなければならない。それに関してビオンは、想像力も夢もないと語っている患者について述べているが、彼らの夢や想像力には近づきえないという可能性を考慮しなければならない。ビオンは近づきえない原初の出生前の思考や感情の胚芽が思春期や潜伏期といった情緒的混乱の時期に表面化し、子どもは突然理解不能となり、一切の常識を失うと考えている。言い換えると、一般に精神病的と呼ばれる行動が現われる。ビオンは、自分自身の内にある何か全く分からないものと格闘している非常に重症の喘息患者で、ビオンが病院で面接していた成人の症例を呈示している。最初のセッションの後喘息は悪化したが、だれもこのことは気にかけていないようであった。治療が進むにつれて患者は病棟のなかに分析家に対する非常に敵意或る雰囲気をつくり出したが、患者自身は強い賞賛と理想化の態度を保ち続けた。実際患者はそれまで欲求不満を感じたことも、狂気の恐れを抱いたことも、身体の病気になったこともなかったのだが、今や狂気になるのを恐れ始め、風邪をひき、評判を落とした。彼は自殺の、一時は非常に強い衝動すら持つようになった。深いところから圧倒する不安が突然出現したことは、治療者と患者にとって非常に危険であることを知らせるものである。ビオンにはこの状態は、源泉のところで排除されているために原初の病には近づくことができないと彼が記載した状態を、顕著に思い起こさせるように感じられた。突然この近づきえない感情が、それまでは無意識的にも意識的にも感じられなかったにもかかわらず、あるとき双方に現われた。ビオンは、自分が記載したこのような体験は、精神病の突然の出現に新たな光を投げかけると考えている。