うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

緑の桜🌸と、【叙述はやはり、すべて叙述者の個人的偏見、とくに叙述する者の普段の治療体験ーー記述者のとるあれこれの技法によって治療体験内容が(少なくとも部分的には)決まるーーの色を帯びる。私の叙述もこの法則の例外ではないだろう。】

ka-gu2018-04-08

 

不調で、寝込んでいる時に、職員さんが、桜🌸の写メを送ってくれました。
空々し言葉や態度よりも、嬉しかったです。ありがとうございました。
 不調だと、本を読んでも頭に全然入らないので、今日は止めました(笑)いつもも、あまり頭に入ってないかも(笑)



 とりあえず、貯金からのアップです。
身体はやはりバリバリ元気ですが頭が不調(いつも?w)
携帯からのアップです。(  ̄ー ̄)ノ



 〜以上全体が結局、かなり治療者患者双方を巻き込む退行傾向に道を開かれたけどその上でどうなるかは、分析者の反応次第である。むろん、分析者なら誰でも、患者がアクティング・アウトを通してこちらに伝達しようとする内容の理解を試みるだろう。しかしアクティング・アウトをどうにかしようとするために分析者は何かの方法で自分の理解したところを伝達しなければならない。これは、それを表現しなければならないということだ。しかし、分析者が患者の“アクティング・アウト”“挙惜”“反復”に対して示す自分なりの理解の仕方、あるいは(私達好みは言い方では)分析者の習慣的反応の仕方には非常に個人差があって、それが整合的であろうとなかろうとすべて、分析者の診察室の“雰囲気”を左右するのは相当程度どころではないだろう。 分析者の整合的“反応”の生みだす雰囲気を叙述した分析者は、云うまでもなくフロイトが第一号で、フロイトはこれを磨きぬかれた鏡への反映になぞらえた。これまでいって文字通りに取れば、分析者が分析作業の中に異質の材料は一切持ち込まず、ひたすら患者の発するものを歪みなく映し出すことであるまいかそういうことが可能なのはただ、患者の提出する題材がほとんど全部もっぱら言葉から成る場合である。(これまではっきりこう言った人はいなかった。)より厳格には、分析者側もまた、もっぱら言葉のみにたよって分析の場を創出する場合に限られる。患者の言葉であると分析者の言葉であるとを問わず、言葉はすべて通常の成人の用法で語られ理解されるだろう。果たしてフロイトの公刊した症例報告の中に患者の提出した非言語的素材も解釈は一箇所も発見しえなかった。すでに一八九五年の『ヒステリー研究』の中で非言語的な現象を観察・記録しているのに――。フロイトがこの制約を自らに課した理由は、自己の臨床に関するフロイトの報告が苛烈なまでに正確なことを知ればおのずと明らかになろう。鏡は映像を映すが、映像の質を変えない。おなじく、言葉を映せばやはり言葉になるだろう。しかし非言語的素材を言葉に翻訳するようなことは、この鏡映的作業させて範囲を越えた仕事であろうと思われる。 われわれは徐々に、相手とすでに患者の言語的素材だけでなく、私が“雰囲気”と呼ぶものを理解し活用するすべを学んできた。“雰囲気”は一部は言葉によって生まれるが、一部はまた患者の言語使用のマナー、そしてまた一部は分析の場における“アクティング・アウト”“挙惜”“反復”全体から生まれる。最後、挙げた三つは、さきに述べたように、常に退行という一面を持っている。 このことは臨床的には退行の存在を示唆する現象がいかなる分析治療においても隠顕するだろうことを意味する。しかし、退行を示唆する現象の頻度と意味と重要性については分析者ごとで大きく意見が分かれる。退行の現象生起への患者と分析者との寄与の比率如何についても意見はまちまちである。患者側の寄与は患者の人格や病気の性質と程度如何であり、治療者側の寄与は、治療者のとる具体的技法如何である(私の見解では、退行現象を生起させる力は患者分析者双方が拠出し合うが、双方の絡み合いのためどちらがどれだけ生起させているかは明らかにし難い。もっぱら一方の拠出だけを抜き出して叙述しようとするのは全部、始めから誤りだろう。しかしこの落とし穴が判っていても、叙述はやはり、すべて叙述者の個人的偏見、とくに叙述する者の普段の治療体験――記述者のとるあれこれの技法によって治療体験内容が(少なくとも部分的には)決まる――の色を帯びる。私の叙述もこの法則の例外ではないだろう。