うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

カーグの画題と、愛着障がい(治療のための精神分析ノートより)


 何だかんだと、ハードな日程をこなしました(笑)
寝ようと思いましたが仕事が山積しているので、少しだけ頑張りました(笑)
 明日はカーグとバンドクラブの日ですが、何を描くのでしょうか?直樹くん用におっちゃんがオークションで100円で落とした勲章を持って行くと親分が言っていましたが、後は何を持って行くのでしょうか?菜の花が綺麗に咲いているので、菜の花でしょうか?
 親分が帰ってきたら聞きましょう!

 北山修先生が言う『まんじり』とした雰囲気?感じ?寝ている様な、起きている様な、ちょうどその間にいると、色々と発想が浮かんでは消え、消えては浮かんで来ますね(笑)
 きちんと良い発想はどこかに書き留めないと直ぐに消えて行きます(笑)『まんじり』としているので、そのままでいたいので、メモも取る気がしないというのも本心ですね(笑)


 またまた、神田橋先生の本からのアップになりました。ウィニコットですね!

 この本の巻末にある『付録 胎児期愛着障害の気功治療』は後日アップさせてくださいね。まだ自分でやっていないので、感想が書けません.....。

 下記の様な支援をしている施設が多いですね......。
研究対象にしてしまう....。
『似て非なるものとして、関係に「関わることをせず」ひたすら距離を保って、精神病理のみに関心を向ける専門家がいる。そのなかには自身の愛着障害を持て余している人がある。自他に更なる障害をもたらさない賢明な選択ではある。技法の核心は「退行の阻止」である。手懐ける技法を編み出す専門家の生き方との良否は意見の分かれるところであろう。』

 退行を見極めて、コトバ以前の場合は、イルカになります(笑)いつもおっちゃんはイルカでした(笑) ペンギンのときも、にわとりのときもありますが.....。

 ♪レジ袋とペットボトルでペンギンをつくろう〜オユー・オユー〜♪おふろすきーでした!
 いつもこんな感じ......。


愛着障害
 従来、「基本的信頼の欠如」などの術語で触れられてきた、要するに「厄介な症例」の病理である。厄介の本態は対象関係の不安定であり、それがもたらす治療同盟の不安定であり、広義の境界例の病理である。
 もっとも、境界例と診断される状態では愛着障害の起源が生後一歳以降にもあるし、その部分は、本質としてイメージ可能でありコトバでの治療が可能である。
 しかし、本質としての愛着障害の起源は「胎児期」と「授乳期」の「不・安心体験」「準備緊張」の引きずりである。心身治療の最重要プロセスである「退行」によってこの対象関係の不安定すなわち「絆感覚の希薄」が表在化するという困った状況である。
 表在化されたこの基本病理への乗り越え作業すなわち「治療」が二種ありそれぞれ「解放」と「固着」という正反対の結末をもたらす。
 論を進めるに先立ち、イルカ療法に目を向けてみよう。障害児を対象にしておこなわれている成果を挙げているイルカ療法は当然、コトバを介さない関係療法である。本質として愛着障害を持たないイルカとの関わりが基本的信頼感すなわち「絆の感覚」を育て、愛直障害を癒す。「解放」である。巷間のペットブームも同じ効果を求めてであろう。この現象が愛着障害治療に示唆を与えてくれる。さらに敷衍すると、自ら愛着障害を持つ人でも親となり、育児に「没頭し」専心することで、親自身の愛着障害が軽減することがある。コトバを解さない新生児がイルカと同じ役割をしたのである。「みどり児の力」とはそれである。
 さて、愛着障害の治療における治療者側の要因として、治療者自身が愛着障害を抱えている場合がある。愛着障害を抱えている人は皆、人生の早期から「生きにくさ」を体験しており、それが心理治療者という職業選択の動因となることがあり、心理治療者集団内の愛着障害者の比率は当然、他の職業集団をはるかに超えている。
 その治療者が同じような愛着障害の病理に出会ったとき、治療を諦めるならばそれで終わる。諦めることなく工夫を重ね両者に起因する「厄介な関係」を生き延びたとき、その治療者は自身と相手の愛着障害の治療について、一歳以後の対象関係については乗り越えに成功する。「解放」である。
 しかし、それ以前の胎児期と授乳期の愛着障害にはコトバは介入できないので、「かのような乗り越え」、コトバによる「糊塗」すなわち「固着」の完成という乗り越えになる。具体的には、治療関係の取り扱いや考え方について、きわめて精緻な理論と技法とを開発する。それが後進を魅了して指導者となることが多い。当然ながら、魅了される後進にも「胎児期の愛着障害」を抱えている人が多い。
 それらの人々を観察していると、指導者自身の愛着障害は不変のままに維持されており、精緻な理論は、原理的には「胎児期の愛着障害をカプセルに格納するコーピング」であり、具体的には、愛着障害を「手なずけ丸め込む方法」「手練手管とその知恵」となっていることが分かる。「固着文化の蔓延」である。
 その本質は、アフリカのサバンナへの文字文化の侵襲・汚染と同じであり、野生の自然への制圧である。当然、自然治癒力の抑圧・衰退化を伴う。おそらく弟子たちにも、さらにはその被治療者にも、そしてその子どもたちにも、愛着障害と手なずけ丸め込みの文化」が伝授される形で治療の完成を見るであろう。揺るぎなき愛着障害の文化伝達と言ってもいい。「育児理論」に依拠して育児をおこなった母親には「みどり児の力」が及ばなく、みどり児の方へ愛着障害の文化が伝達されるのも同じ機制である。「親ばかちゃりん」に優る育児法はない。
 自ら愛着障害を抱えていない治療者は、関係についての理論や技法を好まない。専ら被治療者の精神病理に関心を向ける。退行が起こり「厄介な関係」が生じると、それに対しては「性別を超えた親心」すなわち「雰囲気」のみで対処し、「抱え」で乗り越える。ビギナーズラックのときの対処と同質であり、ベテランの治療者が「初心に還る」感慨を抱くのは正しい認知である。
 精神療法家がお手上げした症例を臨床一筋の普通の精神科医が上手に治療したり、懐の深い非専門家が立ち直らせたりもする。宗教体験による治療も同質である。それらの場合、「胎児期の愛着障害」が本質的に治癒する。「解放」である。イルカの役をしたのである。
 しかも、この種の治療プロセスは相互にイルカの役をするという相互性も生じるので、治療者自身の抱えの能力がさらに大きくなる。育児の場合と同じであり、患者が治療者を癒し・育てる。総じて、愛着障害の治療は、富む者をさらに豊かにし柔らかくし、貧しい者をさらに貧しく頑なにし、治療者の頭をゴチック建築のようにしたりする。いのちの視点からは貧困化である。
 抱えが癒しをもたらした治療では、「抱え」てくれた治療者と親子関係のようなイメージが内在化されるのが自然な成り行きである。それは治療者の後遺症と言えなくもないが、相互依存を本質とする日本文化、の中では不適応をもたらさない。
 似て非なるものとして、関係に「関わることをせず」ひたすら距離を保って、精神病理のみに関心を向ける専門家がいる。そのなかには自身の愛着障害を持て余している人がある。自他に更なる障害をもたらさない賢明な選択ではある。技法の核心は「退行の阻止」である。手懐ける技法を編み出す専門家の生き方との良否は意見の分かれるところであろう。
 被治療者側の原因は、「本質的な不可能」のせいである。「胎児期」と「乳児期」の体験は、自身の記憶の中からイメージとしてコトバとしても想起できない。なぜかしら湧いてくる、「虚しく寒々とした、身の置きどころのない、見捨てられの雰囲気や気分に振り回されている体感」が意識できるだけである。
 それらについての治療者がおこなう解釈は、「なるほどな」という知的納得を生み出すだけで、「説明」の水準に留まる。新たなるデジタルの注入になる。
 以上から、「命名を含めた概念言語の登場以前の体験は、非言語的な抱えによる関わりで治療するしかなく、言語それも文字言語を表の手段とする精神分析の域外にある」とのテーゼが可能である。
 あるいは、「精神分析治療の本質部分として、非言語的な関わりが重要である」と考えてもよいが、その技術は以心伝心的に見習って身につけるべきであり、言語が介入すると「育児理論」と同質の悲惨な成り行きになることは先に述べた。
 ただし、世親分析で達成した成果もまた学習であり、過去の学習の歴史を抹消するものではなく、「乗り越えた」との「新学習」を重ね着するに過ぎない。意識障害時の過去の再出現にその証拠がある。
 愛着障害の病理もまた、同じく残存する。体験を介した理解が重ね着けられるだけであるが、本質的な癒しを重ね着した愛着障害体験は他者への「憐みの心」となり資産ともなる。
 イメージと気功とを組み合わせて愛着障害を察知し治療する手技を、このノートの末尾に付録として紹介する。