うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグとバンドクラブと、《セラピストの情緒や感情の問題》《内省の限界》


今日はアトリエ・カーグとバンドクラブの日でしたが、会場で成人式もあり、マックにお昼の注文をしに行きましたら、晴君が好きそうな車があったので(笑)走って晴君と見に行きました。興奮が中々醒めませんでした!

 前回休まれた方は、トランスファ・ダイをして頂いてから、絵を描いて頂きました。

 こちらは優子ちゃんのです!

 こちらはmicaさんがミシンをかけてくれたものです。





 年が明けたばかりなのに、来年の干支を忘れないうちに描くって.....。
まあ、先走るのが大好きな親分らしい暴走でした(笑)



 バンドクラブは、今日も熱かったです!きっと全国障害者芸術文化祭の勢いが残っているのでしょう!


 ゆうちゃんも熱かったです!

 ドラムの師匠が(皆さん最近こう呼んでいます)変な音で女子の心を射止めていました(笑)フンフン・キョインキョインと変な音を出してましたので、皆で大笑いしました!
良い初バンドクラブでした!
 『夢の中へ』と『東京ブギウギ』を今年練習すると決めました!
『東京ブギウギ』は望むところです!

 今日も7時に車を置きに行きましたが、成人式があったので少し離れた場所になりましたが、まだ許せる範囲でした。バンドの機材が重い上に雨に弱いので助かります。
 マックで時間をつぶす間、『認知行動療法精神分析が出会ったら』を読みながら下記を携帯に打ち込みました。
 次回の方が面白い(笑)と思いますが、こちらを読んでからの方がより理解できると思われるので、アップさせて頂きました。


《セラピストの情緒や感情の問題》
重要だと思ったところは、患者が対するセラピストのさまざまな情緒とか感情とかの問題です。全体として、患者がえらい素直です。私が見ている患者や分析協会でスーパービジョンをしている候補生のケースになってる患者なんかない自分でもどれだけセラピストに本当のことを言っているか実感を持てない人が多い。結局自分にも他人にも嘘つきなんですが、そういう人たちと付き合っていると、こちらが嫌な思いをしたりふざけんなと思ったりすることの連続です。それこそが重要な出会いだと私は思います。私たちがそこでちゃんと患者と出会うということ。「患者をちゃんと憎まないと治療になっていかない」というウィニコットが言った有名なセリフがあるわけですが、そこのあたりの処理というか、そのへんのセラピストの情緒の問題はどうなっているのか。
 一概に言えば、伊藤先生の仰っているhere and now という言葉は、精神分析ではhere and now とは言わなくて、there and now  治療の外での彼、彼女の話だったわけですが、here and now 「ここで」の、治療状況でのことはどうなっているんだろうかということですね。
 僕のファンタジーでは、伊藤先生はすごく、私より六十倍くらい健康な人なんです。パーソナルなことをちょっとだけ言うと、前にフェイスブックのスレッドで、精神科医たちが一つの尺度で自分の社交不安度をお互い競う、というか、「おれは正常下限だ」とか「おれはカッティングポイントを越えちまった」というようなことを皆で言い合うというようなのがありました。私はカッティングポイントよりはちょっと上で、社交不安ではないがかなりやばいというところでした。でも伊藤先生はとびぬけて点が低い。ほぼ全然社交不安がなかったじゃないですか(笑)。こういう人だからできるのか、とか思ったりする。



《内省の限界》
 精神分析というのはどちらかというとhere and now ここで起こったことだけに集中して、それを患者が自分の世界に持っていくだろうという、そういう話ですよね。いくら人ががんばったって自分を内省しようとしてもそこには限界がある。それをフロイトは発見したわけです。主体が脱中心化されていると言ってもいいかもしれません。つまりわれわれのことは永遠に知ることができないということ。私たちが自分がそうだと思ってきたことは嘘だった。そんなに人間は自分のことが分からない。精神分析家はみんな五年以上十年くらい分析を受けるわけですが、全然わかってないですけどね、それほど。わかってなさの質は変わっていますが。精神分析の言葉で言えば、他者の去勢を受けないで自分の本質に到達するということが可能なのであろうか、という、私にとっては原理的な問題があります。
 スキーマ療法の前のCBTみたいに、その人の主体というものを問題にせずもその主体が何かに困っていて、それを意識的に対処していくというモデルのところで留まるのであれば、それもありかなと思いましたが、パーソナリティ障害とかパーソナリティの問題になると、主体というかそこ自体に問題の核心部があるわけだから、そのやり方で本当に変化するのかという考えが、どうしても生まれちゃうんです。「精神分析をやっているから、精神分析家だからそういう偏った考え方になっちゃうんだよ」と言われたらそれまでなんだけど。
 もうひとつ、まったく違う点なのですが、最後のところでスキーマ療法のスキーマがワッーと出てましたけど、あそこでは、オースティックなものがほとんど欠けていると思うわけです。精神分析の今のトレンドを大きく考えると!結局人間関係心はパラノイド・スキゾイド的な世界とデプレッシブな世界と、あとオースティックな世界の三つで構築されているというふうに思っているわけですが。あそこは、私の言葉で言えば、PSの世界かデプレッシブの世界の話でしたね。マインドというか、こころが一応あるというか。スキーマ療法のあのプログラムの中に、オースティックな、つまりまだ他人というものが感覚体験の形でしか体験できていないような、他者でないような、そういうエリアを含みこむことはまだないようです。このままでは‼トータルには物が見えないのかなということをちょっと考えました。
 最初のケースがとても印象的だったんですけど、あのケースで、途中で発表会になっていくというあたりがありますね。それは、先生という人に自分を見せていくということによって、何か達成感がある、先生に見せるために良くなっている部分があるのかなと思いました。精神分析の発想だと、そういう関係になったら、そこから患者が分離していくことには大変なワークが必要です。この喪失という問題について、わりと楽観的なんですけど、つまりは。