うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

マルシェうたたね?ときゃべりんときゃべぞうと、自虐的世話役(幻滅論より)


 今日はケース会議の日で、早番など、午前中の用事を済ませて、うたたねに行ったら、立派な大根が並んでいました!職員が育てたもので、ご自由にお持ち帰りくださいとのことで、皆さん喜んで持って帰っていました。
 いつも会議は時間が少なくなり、最後まで出来ませんが、きちんと書類を作っているので、読み上げができなかった部分は、皆さんきちんと目を通してくれているので、きちんと現場で適用されていることが多いように感じています。
今回は、勉強したいという職員の要望に応え?メラニー・クラインの理論をほんの少しだけ(笑)ケースに合わせて上げさせて頂きましたが、おそらく賛否両論だったでしょう(笑)直には何も聞いてませんが(笑)抑うつポジションくらいの言葉は、覚えていても損はしないように思います。
 精神分析的な方法が上手くいく方、オペラント化のような行動療法的な支援が上手くいく方があるので、その方にあった方法で支援が出来ていければいいなと感じています。



 こちらは、親分が月曜日に、日中一時の方たちとドライブしていたら、きゃべりんときゃべぞうが、菜の花の中で撮影をしていたそうで、思わず携帯で写させてもらったようです(笑)かわいいですね!



 下記は、マックでコーヒー(親分支給のチケットで)とチキンナゲット(クーポンで100円!)を頂き、読みながら携帯に打ち込んでいた箇所です。『幻滅論』は今日読み終えました。これで『クラインーラカン ダイアグローグ』に戻りますが、『フロイトを読む』も読みかけです(笑)フロイトは読書のライフワークにしているので、フロイト関係の本は、ダラダラと読ませて頂きます(笑)

『自虐的世話役』というのは、誰でもはまってしまいそうですね。

Ⅻ阿闍世コンプレックスの罪悪感
1 治療経験
 阿闍世コンプレックスについては、小此木啓吾の解説と発展的な理解に詳しい。これは日本の精神分析学のパイオニアである古澤平作が提示した理論で、阿闍世とは仏教の物語に登場する主人公の名前である。阿闍世は、母親が自分を裏切ったことに恨みを抱くが、この母に向けた敵意に対して処罰が与えられず、母によって受け入れられ許されたときに罪悪感を抱くことになる。この自発的な「悪かった」という気持ちを、フロイトエディプス・コンプレックス理論における、外からの処罰、とくに父からの去勢威嚇による罪悪感と区別し、古澤は懺悔心と呼んだ。
 これは当然、私の文化精神分析学において取り組まねばならないテーマであり、恩や自虐的世話役の理解や、異類婚姻説話の幻滅過程の理解につながるところがある。ここでは、まず自虐的世話役について私の従来から強調してきた諸点を要約し、罪悪感を深める患者の悲劇的人生を成立させている要因を、阿闍世コンプレックスや「甘え」の観点から、新たに抽出してみたいと思う。〜


2 自虐的世話役
三つの特徴
 私たちの多くが共有する悲劇的物語と、個別、臨床を結びつけるものとして、次に挙げる「見るなの禁止」の物語に登場する女性主人公のような生き方を特徴とする一群の人々がいる。彼らを自虐的世話役(masochistic caretaker)と呼んでいる私は、その特徴として主に三つを挙げている。
 第一には世話を求める者に対して非常に面倒みがよく、世話を頼まれると嫌とは言えないことである。そのため、多くの用事や仕事を限界を越えて抱え込み、休む余裕がなく、心身の消耗を繰り返す。面倒をうまくみられないと恥ずかしくなり、極端な場合には死にたくなるほどの抑うつや罪悪感を抱く。第二に、楽をして自分の世話を十分に行うことや他人に面倒をみてもらうことを悪いと感じやすく、気楽に遊べず、適切な休みをなかなかとれない。そのため身体的・精神的に傷ついても、また身体的な病気になっても、適切な世話を受けることが困難となる。そして第三は自らを痛め付けて自虐性で、軽い場合はたんなる苦労性だが、この傾向は進むと快感や満足を伴うようになり、執拗に求められ、過剰な苦労や無理をすることが、やり甲斐や生き甲斐を伴って目的化するようになる。
 そのような生き方を成立させる要因としては、傷つきやすい愛の対象との自己愛的な同一化やその生き方の取り入れがあってで怒りが自己へ向けかえられる自己処罰や自己卑下などの二次的な自虐傾向が生じることになる。さらに、罪悪感(恩)の深まりとともに、強い自我が自虐傾向を強化し、自己の愛されたい、世話されたいという願望は周囲の者に投影されて、これと同一視された「世話を受けたい人々」の世話をすることで自己満足を得るという内的因子が完成する。これに加えて、周囲に現実的な「傷つきやすい母親」がいるなどの環境因子があると、攻撃性をぶつけることや放っておくことに罪悪感が伴いやすくなり、ますます「わがまま」を抑えて相手の傷つきやすさを世話せねばならなくなる。そしてこのような生き方が、「良い子」として親や環境から期待され、その状況が慢性化して固定化すると、自虐的世話役が唯一の愛を得て生き残る方法となるのだろう。
 このような生き方を示すのは、いわゆるパーソナリティ・ディスオーダー、抑うつ状態、分裂病寛解状態から、軽い性格神経症、ふつうのお母さんや一般労働者まであり、さまざまな水準と領域の生き方においてである。その広がりの理由のひとつは、このような生き方が、人々が居場所を得て適応するための確実な方法となり。物語の女性主人公のように、その良い面は社会的に愛され、評価され、求められ、文化的にも美化・理想化されて、同時に、その死や傷つきを通して周囲です罪悪感を生み出し周りを支配することができるからである。臨床では、この生き方の背後にあると想定される「本当の自分」は、自虐的な役割を奪われて不用意に暴露されると恥の不安とともに退去するという物語通りの悲劇的結末もある。このような患者に対して、治療者が「見るなの禁止」を破って侵入的になったり、深い理解なくただこの役をおりればいいと助言することは危険である。 



マゾヒズム
 ここで私たちが注目するのは、自らの身を傷つけてまで献身する女性の側の自虐性の問題である。自虐性については、フロイトやW・ライヒなどのさまざまな角度からの分析があるが、とくに「モラル・マゾヒズム」についての研究成果についていくつか知っておくことは有意義である。ただし、マゾヒズムという言葉はその用語の由来から性的な快感を伴うという意味合いが大きいが、倫理マゾヒズムにはそれが表面的には希薄である。
 マゾヒズムの本質は、相手への外向きの攻撃性を自らに向け換えたところにあり、罪悪感を体験しないまま攻撃性を表現する方法になる。ということである。さらに、周囲に罪悪感を体験させる自虐傾向は、これを通して動かされる周囲から彼や彼女が愛情を獲得する方法だという側面もある。さらに重要なことは、これらの理解は理解としては正しいとしても、治療でこれを患者に伝えても抵抗にあって、なかなか生き方に大きな変化が生じないという点であろう。自虐性を指摘されて、それで自虐的であることをやめて楽になるのであれば、生き方としての自虐性ではない。これらの女性主人公たちが、ヒロインとしていつまでも求められ愛されるのは、それを見る私たちが心を動かされ支配されているからであるが、これだけ求められるのなら、誰だってやってみたくなる。つまり、はまってしまう。
 そして、自虐的世話役の、自らの身を削る自虐性と他者にだけ愛を与えようとする愛他主義という二重性は注目に値する。物語においても、献身的な主人公は、他者に対して献身しながら、その愛の素材としてのこの身を痛めつけているのであり、その二面性が「見るなの禁止」によって隠されている。これが共存するという可能性はアンナ・フロイトによって示唆されたもので、マゾヒズムと愛他主義の合成として示唆されている。そして自らの愛情欲求を相手に投影して、これを相手のものとした精神メカニズムが提示されている。つまり、自分が世話されたいように相手を世話しようとして、完璧な世話役となるのである。
 こうして、きわめて日本人的なものとしてとらえられる「自虐的世話役」についても、十分に「精神分析」が可能である。それでも治療困難となる理由のひとつは、この状態が求められ、肯定され、ときに愛され、理想や美意識となるからである。患者たちの多くが不眠を訴えるが、眠らないことと自己犠牲は「母さんはよなべをして手袋あんでくれた」と歌われるような文化に強固に結びつく。眠れる「自虐的世話役」、つまり、献身が限界を超えぬよう注意し、可能なときには休むことができる場合、多くが役割として使い分けられた「夕鶴」であり、これは多くの場合健康だろう。そして、極端な例は神や英雄となるという現象はmイエス・キリストからフローレンス・ナイチンゲールまで、その生涯を細やかに挙げるまでもなく、洋の東西を問わず存在する。そして、ユング派は「傷ついた治療者」(wounded healer)という治療者の原型を発見しており、治療者に関するイメージや、それと私たちとの心理的関係を考えることは、臨床的問題としても重要なのである。