うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

早番と『急激な幻滅と罪悪感』(幻滅論より)


 昨日・今日・明日と早番で入ります。(入りました)
今朝は良い天気で、6時過ぎに出勤する時、空がきれいだったので、思わず携帯で写してしまいました(笑)
 なんだかんだと、相変わらずバタバタしている毎日です!
夜勤や早番・遅番は大変ですが、その分やった感が半端ないので(笑)意外とスッキリします。



 本は『クラインーラカン ダイアローグ』に入っていますが、『幻滅論』では沢山心に残った個所がありますが、最後に下記だけアップさせてください。特に赤字での引用部分は心に残りました。



古澤平作精神分析は〈とろかし〉技法といわれるが、患者の心の中に分け入り、代理自我となり、分析者も患者の不安を一緒に体験し、患者の不安の軽減をはかるというところに特徴がある。』

『心的外傷を取り扱う精神療法では、患者がそれまで隠していた秘密が暴露されることが多いが、治療者は、誰かを癒そうとするとき、できればその相手の傷に驚くことなく立ち合いたいと思う。日本語では、「見にくい」と「醜い」、そして医者が患者を「診る」と「見る」は同音異義語である。つまり患者を診察することは「見ること」であり、うまく見ることができないのは、「醜い」と感じているからかもしれない。物語の最後で、立ちすくむ、あるいは逃げる主人公は、そのことも教えてくれる。 
 そして、露出した傷口を見て「痛み(=いたしい=愛しい)」を感じる治療者は、同時に逃げ出すわけにはいかないので、そこに留まり、患者の為に過剰に奉仕し、まったく消耗するまで身を捧げることがある。その反復には、内的な罪悪感の深まりを強いる、治療者自身の過去の親子関係が台本としてあるのかもしれない。これらの物語は、僅かに、自虐的世話役と呼ぶことのできる患者たちの抑うつ心身症を取り扱うときに役立つが、何よりもまず、治療者の限界と「傷つきやすさ」を知って自らの健康を守るための私たちの自己分析に役立つと考える。〜』




3 急激な幻滅と罪悪感
「甘え」と罪悪感
 臨床例と平行して、物語における悲劇を取りあげる理由の第一は、これらの伝承のなかに繰り返される過程が人間の代表的悲劇体験のひとつであると仮定したからである。そして、臨床的悲劇に関する体験が深まるに伴い、この悲劇が親子関係、それもとくに母子関係の反復であり、この母親像の幻滅の繰り返しを、人間の発達過程における危機的課題として提示できるようになったわけである。
 以上の臨床経験を踏まえて再び振り返ってみると、物語における「見るなの禁止」によって隠された傷つきとは、男性主人公の際限のない要求に応じる母親的女性の自己犠牲や献身の結果で、双方に責任のあるものである。そして、その幻滅の悲劇は、もうこれ以上甘えられない、こうこれ以上甘やかすことはできない、という限界に直面して生じる、甘えの幻想とその崩壊を示すものと言っていい。
 今、甘えの観点から異類婚姻説話を読み直すと、男性主人公たちの甘えが際立つことがわかる。なぜなら、子どものような男性主人公たちは、その出会いから別離までほとんど受身的である。この二人の結婚は、ほとんど「押しかけ女房」の形式であり、女性のほうが男のところに突然現われることが多い。たとえば、男性が積極的に女性を見つけて連れ込んだり、男性が去っていった女性を連れ戻すという積極性を発揮することはないようだ。さらに彼らは女房の死、出血、傷つき、そしてその醜さ(見にくさ)などに対して、受身的で、無力である。終始相手が一方的に献身してつくしてくれるのであり、美しく豊かな女性像に執着して、いつも受身的に世話する人たちを待っているように見える。ゆえに、これらの悲劇的展開は、男性主人公の執拗な甘えが原因のひとつであるとすることができる。
 空いても傷つきや死が、部分的には男性側の責任で、「見るなの禁止」を守ると約束しておきながら破るという責任もまた男性の側にあるという、そういう〈見る側〉の自責につながる罪悪感の深まりは、物語内部では明らかにならないままである。むしろ意識されていないでいると言っていい。こういう状況で立ちすくむ男性主人公のような人たちの治療では、対象の傷つきやすさやその他の要因を時間をかけて考え、怒り、それに直面しながら罪悪感を噛みしめるという作業が重要となることがある。その過程で明らかになる典型的な事実関係を単純化して言うと、環境側が心理的・身体的に傷つきやすく脆弱で、子どもの要求に耐えることができなくなる場合、環境側が傷ついてまで無限に献身すると、圧倒的な「押しつけられた罪悪感」を子に生じさせることがあるということだろう。そして、その無限に深まる罪悪感を解消するために、子自らが自虐的世話役になる可能性があると考えられる。つまり、〈つう〉が〈つう〉を作るのであり、とくに同性の母と娘の間で相互の同一化があるとそれは促進される。


二重の罪悪感
 さて、このような「見るなの禁止」の物語と、小澤・小此木版の阿闍世物語との接点を考えてみたい。第一に、理想化された母親のそれと相反する一面に直面して、それまでの一体感が急激に幻滅するところである。「見るなの禁止」の場合は、母親像を具現する女性の献身的な世話の背後にある傷つきや動物性が「「阿闍世」場合は母親との一体感を壊す裏切りが、(ついでながら言うと、またエディプスの場合は近親姦と父親殺しの事実が)いつも急激にそれまでの良い関係を壊し、母親との「つながり」を切ることになる。さらに、「見るなの禁止」の物語と阿闍世の話とをつなげるのは、世話する側の献身、自己犠牲である。そして、これは古澤により、宗教的な罪悪感、さらには罪悪感にまで発展していくことになる。彼は言う。
 「あくなき子供の〈殺人的傾向〉が〈親の自己犠牲〉に〈とろかされて〉初めて子供に罪悪の意識の生じたる状態であるといいたい。」
 ここで注意せねばならないのは、親が自己犠牲を行ったからといって、子どもがこの罪悪の意識に至るとは限らない点であろう。これを。豊かな母親像と、限界を超えた自己犠牲のために傷つく母親像という、母親の二面性の問題とするなら、これを素直に受け取って(飲み込んで)懺悔の気持ちに至るという場合や、その恩着せがましさに圧倒されて自分を苛む場合、押しつけがましいと感じて、この罪悪感の未消化であることが「押しつけられた罪悪感」として後に残る場合などがあるだろう。小此木も指摘しているが、後者では許す側が許される側に許され型罪悪感も発生を期待し、骨を折り、献身するところで、許す側のマゾヒズムと、それに同一化する許される側のマゾヒズムが、無限に再生産されるということになる。
 だから臨床で、許す側の責任、つまり抱える環境の責任も視野に入れるとき重要なのは、自分の限界(分)を知った上での罪や責任の認識であり、環境の脆弱さや自分の限界、つまり傷つきやすさを現実的に承認するということだろう。
 古澤は、その「罪悪感の二種」の論文で印象的なエピソードを語る。皿を壊して脅える子どもが親の「お前のしたことは明らかに悪い……が人間は人間、皿は破損すべきもの」という発言を聞いて抱く感情とは、処罰による罪悪感とは異なると言うのだ。これが許されて生じる罪悪感で、この懺悔心こそが「本物」に近い罪悪感であるなら、「皿は破損すべきもの」と、その罪意識発生に際して対象や環境の壊れやすいことを環境側が提示することが重要である。というのは、その大事なものの存在しにくいという認識が、「ありがたい」(あり難い)という感謝の念につながるからである。


5 治療者の同一化
〜「古澤平作精神分析は〈とろかし〉技法といわれるが、患者の心の中に分け入り、代理自我となり、分析者も患者の不安を一緒に体験し、患者の不安の軽減をはかるというところに特徴がある。」
 古澤を離れた一般論としても、傷ついた患者と献身的に同一化する治療者像が発散する力については、これが本人だけではなく、患者や周囲に与える影響は大きいと想像しているが、それは、先に示した「傷ついた母親」のことであろう。たとえば、阿闍世の母に関する解説で盲目的な愛を向けるという表現が出てくるが、日本語でも、これは理性を失った過剰な犠牲を伴う愛という意味の比喩である。多義性が豊かな比喩は、単純化すると文字通りの意味と比喩的意味の二重の意味をもつものだが、具体的にどのような比喩を使うかという、その文字通りの意味が意義深い。たとえば、目に入れても居たくないくらいに可愛いというような、目にまつわる表現は、日本人の育児に伴うマゾヒズムを示していると思う。
 心的外傷を取り扱う精神療法では、患者がそれまで隠していた秘密が暴露されることが多いが、治療者は、誰かを癒そうとするとき、できればその相手の傷に驚くことなく立ち合いたいと思う。日本語では、「見にくい」と「醜い」、そして医者が患者を「診る」と「見る」は同音異義語である。つまり患者を診察することは「見ること」であり、うまく見ることができないのは、「醜い」と感じているからかもしれない。物語の最後で、立ちすくむ、あるいは逃げる主人公は、そのことも教えてくれる。
 そして、露出した傷口を見て「痛み(=いたしい=愛しい)」を感じる治療者は、同時に逃げ出すわけにはいかないので、そこに留まり、患者の為に過剰に奉仕し、まったく消耗するまで身を捧げることがある。その反復には、内的な罪悪感の深まりを強いる、治療者自身の過去の親子関係が台本としてあるのかもしれない。これらの物語は、僅かに、自虐的世話役と呼ぶことのできる患者たちの抑うつ心身症を取り扱うときに役立つが、何よりもまず、治療者の限界と「傷つきやすさ」を知って自らの健康を守るための私たちの自己分析に役立つと考える。〜