うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグでトランスファー・ダイと、潔くあきらめない(きたやまおさむ講演会)


 今年最後の、アトリエ・カーグは、トランスファー・ダイで締めくくりました!
 指導はうたたね職員でもあるmicaさんです!



 説明を受け



 いざ開始!


 素敵な作品が沢山できました!
後はmicaさんがミシンで縫ってくれ完成です!
完成までしばらくお待ちくださいね!


 はさみが大好きな、ゆうちゃんが沢山素材を作ってくれました!
親分も前日の夜に素材を一気呵成に描いていました。

 その後は、サンドウィッチで打ち上げでした。
今年も色々ありましたが、来年もよろしくおねがいいたします!
 バンドクラブは名古屋で打ち上げでした!


 カーグが終わってから、おっちゃんは浜松まで走って、きたやまおさむさんの講演を聴いてきました。 講演会の題は『潔くあきらめない』でした。
 浜松いのちの電話30周年の講演会で、後半はコンサートがありました。

 歌は鈴木重子さんで、ギターは笹子重治さんでした。
鈴木重子さんは、地元の方で東大法学部卒業と記載されていましたが、表現活動を選ばれたと言っておられました。
 苦しんだ時に、暗黒舞踏と出会い、自分をさらけ出すことができたそうです。アレキサンダー・テクニークの指導者でもある様なので、暗黒舞踏から行きついた先は、アレキサンダー・テクニークだったのでしょうか?CDを購入してそのところをお聞きすればよかったのかも知れませんが、御多分にもれず(笑)お金を余分に頂いていないもので、お金がかかるところには近づけないという現実があります......。
 機会があれば、お聞きしたいと思っています。

 きたやまおさむ氏の講演は、北山修ウィニコットを読み込んでいる最中の人間には物足りなかったですが、北山修ウィニコットの解釈をきちんと話されている感じがして(めっちゃ偉そう!)良かったです。
 話し方も、日常語で頑張って?話そうとされている感がひしひしと(本の読み過ぎか?)感じてきて本の内容を実践されているんだと、感服させられました!

 当法人の総会に北山先生をお呼びしたい(勝手に思っています)と思って理事長に掛け合いましたが、無理そうなので、水島広子先生や藤山直樹先生、深津千賀子先生(皆さん凄い方ばかり....)を提案させて頂きました。実現できるかどうかは、理事長次第ですね!
 精神分析的支援なるものを考え中です。精神分析が万能とは思っていませんが、学ぶところは際限なくあると思っていますので、是非とも実現させたいと思っています。

 講演会で隣の初老の紳士が『幻滅論』を開いていましたが、ご自分で購入された本でしたが、おっちゃんは図書館で借りた本を開いていました(笑)。誰にも気兼ねしないで、本を買えるようになりたいな!とも思った一日でした(笑)

 せっかくなので(本当はカーグで車を置くのに7時に会場の駐車場に行き、マックでコーヒーを飲みながら読みながら打ち込ませて頂いたところのアップです)『幻滅論』からアップさせて頂きます。


1 人と人のつながり
Ⅱ情緒の言葉
3 情緒的洞察
 ここで、精神分析における言語と情緒との関係を議論するとき、分析的な治療で重視されている洞察を「情緒的洞察」(emotional insight )と「知的洞察」(intellectual insight )という二つに分けた人たちのことを思い出したい。J.サンドラーらの有名な教科書『患者と分析者』には、この情緒的洞察(あるいは情動的洞察)の簡単な解説が出ているが、彼はリードとフェインシンガー(一九五二)の論文を引用して、次のように言う。
「〈情緒的〉洞察においては〈情動が患者の洞察する主題内容の一部である。もっと明確に言えば、洞察を通して情動の意味が理解されるともいうような用語である〉。言いかえれば、〈情動的〉洞察というのは、〈それが患者に事実(それは情動であるかもしれないし、そうでないかもしれない)を意識させ、それが情動的反応を解消させるか、生じさせはじめる〉ようなものであり、これは〈力動的に効果的〉な洞察ということもできよう」。
 情動的洞察の一部は、゛aha-experience ゛(ああそうだったなあ体験)に似て、自分について洞察を深めると情緒的になり、ときにその瞬間、笑ったり、泣いたりという喜怒哀楽の深い情緒体験が起こるというフロイト以来の観察に基づいている。私がかつて報告した或るヒステリーの女性患者は、正確な解釈を得たときに大きく笑ったことがある。私たちは、自分から関する深い通してを得たとき、理解と情緒が同時に体験されると言い、一般に洞察と呼んでいるのは、たんなる知識獲得ではなく、そういう情緒的なものなのである。だから、情緒と言語という先の二分法が接点をもったときこそ精神分析体験は意義のあるものとなり、その接点が精神療法のなかで経験されたときは、とても得難いものが実現したことになる。精神分析は、言語的なものというより、情緒は言語が入り混じる、織り込まれる、あるいは共存する、その二つの間に橋が架かる、という具合に表現されるはずの、両面的で中間的な情緒的こそが眼目である。最近このテーマで学会誌の特集を編集した小此木(二○○○) によれば、このような現象は我が国ではずいぶん前から取り上げられていたという。
 このような言語対情緒の対立構造は、公(public) 対私(private )、精神(psyche)対身体(soma)、男性性対女性性、強さ対弱さの対立図式と連動し、日本語概念を使うなら、外と内、建前と本音という状況的な対立図式とも連動する。だが、ふつう、情緒は私的なもので私情、と呼ばれ、公的な場ではあまり表してはならないが、内輪ではあからさまに表現されても許されることになるのだろう。また、公的な場で、表現しにくい情緒を安易に分かってもらおうとすると、それは「甘え」として否定されることも多いが、私的な場面ならそれを言葉で表現しないまま分かってもらおうとする「甘え」は許容されやすい。ここには「ダブル・スタンダード」がある。
 ふつうは情緒的洞察は知的洞察と対立するものであり、多くの日本人にとっても、情緒の多くは言葉で表しにくい気持ちや感じであり、知性に対立するものとして取り扱うこともよくある。言語というのは排除的構造をもっていて、言うに言えぬ多くの情緒に対しても排除的であることを確認しておきたい。そして、東洋人にとっては、喜怒哀楽の情緒は言葉化されるよりも「身体化」(somatization)されやすく、東洋のうつ病患者は、西洋のうつ病患者よりも、身体症状を訴えやすいと報告されることがある(Kleinman.1986)。ということは、心身症を説明するために使われる゛alexithymia゛という「感情言語化困難症」は、極端に言うなら情緒を言語にできることも当然視している点で、きわめて西洋的概念なのであり、「感情表現困難症」とすべきである。つまり、東洋人も情緒は表情や身振りで表情するが、その情緒を言葉にせねばならないとか、それが簡単にできるとか思っていないように私は思うのである。

 私の知るかぎり東西を問わず、言葉では私たちの気持ちをなかなか分かってもらえず、情緒的になることは知的であることとは対立するという図式を共有している。逆に言うと、日本人の精神分析臨床では、分析家が心理的に患者の外部に位置づけられるかぎり患者の情緒は言葉になりにくいが、治療者と患者との間でいったん基本的信頼(basic trust)と安心感にあふれた関係が確立されると、情緒的な表現があふれだすというわけだ。だから、「日本人は無口だから精神分析的な治療は無理」というよく言われる議論には嘘がある。そして日本人もまた、いったん治療的回復が確立され、心の秘密がここだけのものとして守られることが分かると、実に多弁になるのである。



4 言語の優位
 だからD・Wウィニコットが次のように言うとき、驚くべきことのように私は感じる。 
「センチメンタルは精神療法においてはほとんど役に立たない」(〝Deprivation&Delinquency”から)情緒発達を研究しているはずのウィニコットが、治療を動かすものとして情緒を信用しないのは、やはり彼も言語的、あるいは合理的な一貫性に期待しているのだろう。この〝sentimentality”に関する評価にも、東西間に独特の違いがある。ウィニコットだけではなく、精神分析の発達理論においても、こういう情緒は排除されていたように思う。ところが、M.マーラーらの児童を取り扱う研究者や分析家が、その理論化や臨床実践において情緒を重要視するようになってから、情緒が頻繁に語られるようになってきたわけだが、このような最近の変化の背景には、西欧の文化がエモーションを排除してきた歴史に対する反省があると思う。  
 同様に児童を研究しているR.エムディにこのことを問うてみたら、彼は、「分析後パーキンソン症」(post-analytic parkinsonism)という、若い分析家たちのことを揶揄する冗談がかつてあったことを教えてくれた。分析の教育のなかで、「分析のなかでは絶対的中立を維持しなくてはいけない」というふうにたたき込まれた結果、パーキンソン症のような無感情で硬直した顔になったというわけである。
 にもかかわらず、先にも述べたように、精神分析では言葉と情緒の結びつきを大きな可能性として期待している。そして、情緒的洞察に向けて「感じていることを言葉にする」という精神分析的指示は、方法を言葉に頼っているのだから、言語の影響を受けるのは当然だろう。英語圏精神分析的治療では、患者の感じていることが簡単に言葉にならないときは、治療に対する「抵抗」と呼ばれることがある。だが、私たちにとっては情緒は簡単に言葉になるとは限らない。
 私たちはむしろ西洋人以上に両者を二本立てのように考えていると思う。言葉も大事、情緒も大事だが、その言語的な情緒表現の可能性については悲観的とも言える。文化差という視点を持ち込むと、「感じていることが言葉になる」ことに対する楽観と当然視は、日本人と比べると、言語的活動を優位に考える欧米人において際立つことが分かる。だから、日本の精神分析研究者は、言語的交流と非言語的な交流の二本立ての臨床交流を前提として、治療を構想せねばならないだろう。なにせ日本語は、ここに連なる書き言葉の硬い交流とは別に、臨床では主流となるが微妙に柔らかな話し言葉を有するくらいで、このような二重性はあちこちにある。