うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

B−Sproutの撮影!


 今日は、全国障害者芸術・文化祭のオープニングで使う、映像の撮影があり、皆さん仕事を半ドンにして駆けつけてくれました!
 取り敢えず、せっかく集まって頂いたので、練習しました。

 カメラが入ると、皆さんいつもよりかっこ良かったです!

 おっちゃんのギターの1弦が、3本も切れてしまい、みなさんにご迷惑をおかけしました。
 傍から見せさせていただいていると、ドキュメンタリー映画の様でした!
 12月9日(金)に愛知芸術文化センター2F大ホールで流れるようですが、果たして使って頂けるでしょうか?

 今日は、早番と撮影と、夜勤で、夜勤に入ると、貴ちゃんが何かをやりきった顔をしていて、目標があるって素敵だな!と感じました。当日まで頑張ってギターを練習しておきますね!今日は、1弦が3回も切れて、一番テンバッテいたのは、おっちゃんかもしれませんね(笑)


 懲りもせず(笑)本を読み続けています。

『絶対的な要求が母の努力に見合うものではないため、母の努力は要求を満足させるどころか、要求を刺激するのです。このことは、貪欲さについてのメラニー・クラインの関心を説明するものでしょう。クラインは貪欲さを生まれながらの情動と見做していました。それを「甘やかし」の効果か、剥奪の効果としてみる人びともいます。イヴァナの母親の早期のアプローチについては、ルソーがそれを『エミール、あるいは教育について』のなかで考えていたともとも言えるでしょう。「体をしばられてもいず、病気でもないのに、そして、なんの不足もないのに、子どもが長い間泣いているのは、習慣と強情で泣いているにすぎない。それは自然のせいではなく、乳母のせいだ。うるさいのにがまんすることができない乳母は、なおさら子どもを泣き虫にする。きょう子どもを黙らせれば、あしたはもっとひどくなかせることになるのがわからないのだ」。』


『幼児の世界を開拓したクラインは、母への関係が、さらに広い世界への関係を導入することに気づきました。子どもの幻想においては、母の体は外部の要素を含んでいます。父のペニス、他の赤ん坊、武器、衝突し、侵入してくる対象を含み持つのです。クラインに従えば、赤ん坊は母親とコミュニケーションしているのではなく、母親などお構いなしに、母親を使用して、世界と関係しているような印象が得られます。クライン的な幻想理論のなかの赤ん坊は、母の身体の内部に住まわっているのです。』




 中々鋭い言葉ですが、支援に参考になりそうでしたので。アップさせていただきました。




『クラインーラカン ダイアローグ』より
【児童分析】
《部分対象》
〜乳房と出会うことによって、赤ん坊は他者を求めることができるようになります。こうして、乳房が人間世界、つまり共通の参照点によって意味を共有しあう本質へと導入されるのです。「原初の叫び」は他者とのコミュニケーションのためのチャンネルを見つけ出します。意味に満ちた母の対象が介入することによって、赤ん坊は絶対的要求から疎外されます。ラカン派の用語を使えば、このように言うことができます。「抱っこする母」「ほど良い母」は、意味やコミュニケーションの手段を供給する母であり、この母がなくては絶対的な要求は表現されることはありません。この母を通じてこそ、赤ん坊は絶対的要求をはっきりと言い表わし、言明することができるのです。しかし、要求が母なる対象へと疎外されることは、事実として起こるわけではありません。それはただの論理的帰結に過ぎません。つまり、絶対的な要求が母の努力に見合うものではないため、母の努力は要求を満足させるどころか、要求を刺激するのです。このことは、貪欲さについてのメラニー・クラインの関心を説明するものでしょう。クラインは貪欲さを生まれながらの情動と見做していました。それを「甘やかし」の効果か、剥奪の効果としてみる人びともいます。イヴァナの母親の早期のアプローチについては、ルソーがそれを『エミール、あるいは教育について』のなかで考えていたともとも言えるでしょう。「体をしばられてもいず、病気でもないのに、そして、なんの不足もないのに、子どもが長い間泣いているのは、習慣と強情で泣いているにすぎない。それは自然のせいではなく、乳母のせいだ。うるさいのにがまんすることができない乳母は、なおさら子どもを泣き虫にする。きょう子どもを黙らせれば、あしたはもっとひどくなかせることになるのがわからないのだ」。
 赤ん坊を預かっている他者は、何であれ失われてしまったものとして現前するのです。つまり、絶対的な大文字の他者として、必死に求められているものの役割を体現するのです。ラカンが言うには、全能性は子どもの側ではなく、母の側にあるのです。赤ん坊は自分の欲望が、他者のきまぐれな欲望の手中にあるということに遅かれ早かれ気づきます。自分の生命そのものが、他者の欲望次第なのです。幼児にとって他者の現前があまりに明らかでも、それとの関係はあまりにも不調和なものなので、失われ、そして欲望された対象の他者が全面的に負うことになります。母もまた絶対的な要求の法に従属しており、自分が差し出さなければならないものによって赤ん坊が満足することを要求しています。母の要求は、赤ん坊の望みが自分の乳房によって、自分の愛、自分の世話などによって満足することなのです。こうして、母なる対象が起源的要求の対象に取り込まれます。このような母子関係の自己充足という錯覚のなかで、世界が止まることも考えられます。ここには、欲望されるべきものが何も残らないような要求の循環があるのです。母の乳房の満たしと、母の抱擁の取り囲みとの循環性において、世界が止まると考えられるのです。しかし、世界は止まりません。赤ん坊の要求と母親の要求の循環は、常に母子カップルを理想化してきました。その一方で、主体にとって都合の悪いことはすべて、起源的には母の失敗であるとする確信が、その循環によって生まれているのです。母子関係が単独でどれほど頼もしく、有意義に見えるにせよ、その行き着く先は袋小路なのです。このことの証明をクラインのエディプス葛藤の仮説に見出すことができます。クラインは、フロイトがエディプス葛藤を四歳に起こるとしたのに対して、それよりも早期のエディプス葛藤を仮定したのです。とても小さな子どもと分析作業をし、幼児の世界を開拓したクラインは、母への関係が、さらに広い世界への関係を導入することに気づきました。子どもの幻想においては、母の体は外部の要素を含んでいます。父のペニス、他の赤ん坊、武器、衝突し、侵入してくる対象を含み持つのです。クラインに従えば、赤ん坊は母親とコミュニケーションしているのではなく、母親などお構いなしに、母親を使用して、世界と関係しているような印象が得られます。クライン的な幻想理論のなかの赤ん坊は、母の身体の内部に住まわっているのです。