うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグとバンドクラブと、『失錯行為:正常な人の日常生活における無意識の現れ』



 今日は、アトリエ・カーグとバンドクラブの日でした!
大きな黄ボール紙に描かれた方は続きをされ、皆さん完成していました。直樹君は、大きな紙に思う存分描かれていて、気持ち良さそうでした。

 史君は、ハロウィンのかぼちゃ!

ゆうちゃんはボーリングのピンとチョコレート!

 たっくんは、お土産でもらった緑のパッケージのライオン!

まさくんは、早くお昼ご飯が食べたかったのか?珍しく早く5枚描き上げていました。これは何となく良い感じ!
まだまだ沢山の作品が出来上がっていましたが、おっちゃんは雑用で忙しく(笑)全部の撮影はむりでした。


 バンドは、目標があるとみなさん本当に揃っていました!
ちかちゃんの口笛が、前回から入りましたが、中々カッコイイ!






 今日も早めに出て、車を置きに行きましたが、催事があったのか?車がすでに沢山駐車していて、離れた所からの搬入になってしまいました。
雨も降っていたので、少しだけ(笑)大変でした。
 時間が少しあったので、マックでホットコーヒーを飲みながら『フロイトを読む』を読みながら、アップさせて頂きたい箇所を、携帯に打ち込んで、メールでPCに送りました。サリヴァンが一番鋭い観察力・洞察力があると思っていましたが、分かり易く解説していただくと、やはりフロイトは凄いな!と素直に思いました。

 本当は、昨夜、違う内容を打ち込んでアップさせて頂こうと思っていて、義母の様態が悪くなり、病院に駆け付けたので、途中で保存したままです(笑)今日は、カーグがあったので、こちらをアップさせていただきました。

『日常生活の精神病理学にむけて』 (1901b)
失錯行為:正常な人の日常生活における無意識の現れ

フロイト以後

 度忘れ・言い違いそして他の形の失錯行為は、単に普通の人びとの人びと日常生活に現れるのだろうか、そろとも、神経症患者の精神分析治療の中で何らかの位置を占めているのだろうか。著作の中ではフロイトは、失錯行為と神経症を源にする障害を関連づけて締め括っていたが、精神分析状況の中で失錯行為をどのように解釈するのかは、はっきり?と述べていない。それでも彼は、失錯行為が形成される諸機制と夢形成の機制の間に存在する類似性を示しながら、間接的にその問いに接近している。そういうわけで、フロイトは失錯行為が無意識的な抑圧された欲望の表現であり、分析作業によって潜在意味を明るみに出せるのを示すことによって、夢と症状の解釈と同じ資格で、転移関係における失錯行為を解釈する道を開いている。
 現代の臨床精神分析者は、失錯行為が患者の行動における「失敗」や度忘れ・言い違い・患者の間違いのどの形であっても、転移・逆転移関係の中で現れる失錯行為の解釈に、重要な位置を与えている。これらの失錯行為は往々にして、患者の無意識な抑圧された欲望を―そして時には精神分析者の欲望をもその逆転移の諸側面から、華々しい仕方で明らかにする。患者が遅刻したり、カウチの上で眠ったりするようなセッション中に生じる失錯行為は、しばしば厳密な意味で「面接内行動化acting in」と呼ばれ、セッション外で生じる失錯行為は「行動化acting out」と呼ばれる。これは、転移との関係での遷移として理解されるべきものである。対象からのブンリ不安と対象喪失の不安は、分析者-被分析者関係の設定で失錯行為が最も多く生じる原因の一つとなる(J-M.Quinodoz 1991)。
 例えば患者が分析者との関係で気づかずに情緒的反応によって掻き乱された後、面接に来そこなうということがある。一度明るみに出されると、このは失錯行為の意味は、さまざまな抑圧された感情を露にする可能性がある。例えば分析者への失望に続く患者の敵意であり、その失望はセッションへの遅刻という形で再び表面化するかもしれない。恣意的で不適切な解釈を避けたいならば、患者の自由連想のみが、この種の失錯行為の本当の動機を嗅ぎつけることができる方法である。分析の途中で突然生じる言い違いに関して言えば、ジャック・ラカンJacques Lacanはそれらが、言語活動の構造と無意識の構造との関係を特に明らかにするものであり、無意識的転移のその瞬間における状態の認識に近づくことができる手段の一つであると主張している。


精神分析は象徴的な意味に接近できる人たちのみのものすべきだろうか?

失錯行為や言い違いの無意識的意味を自覚することは、誰にでも理解の及ぶものではない。事実、失錯行為や言い違いは、その人の周辺の人びとには特に意味があるが、当人にとっては必ずしもそうではない。これは、人の意識を逃れるものという無意識の定義自体に反応している。人が自分の気づかなかった失錯行為や言い違いの意味を少しずつ発見し、精神分析者との関係に結びついた情動と関連づけるようになるのは、しばしば長い分析作業の後である。
 失錯行為や何らかの無意識の産物の意味を自覚する可能性は、一部は意識化に反対する抵抗の力に由来するが、一部は当人が自分の言明や症状行為の状況な意味に接近する能力にも依る。事実、象徴的意味に接近するこの能力には、個人差、相当大きい。これは或る人の分析可能性、すなわち或る人が解釈の作業に、しかも転移関係の解釈に、どの程度接近できるのかを評価するという問いを提起する。この問題の見方は、精神分析者によって異なる。或る人たちにとって、とりわけフランスでは、精神分析治療は本質的に、自分の言明の象徴的な意味を造作なく物にする人たちつまり神経症的な型の構造を示している人たちのためのものである(Gibeault 2000)。反対に、他の精神分析者たち、例えばクライン派の流れに属する者たちにとっては、象徴化には2つの水準がある。1つは、心的構造が「象徴等置」で機能する、具象的な思考によって支配された原始的水準である。もう1つは、神経症的組織に相当する水準の、象徴的表象の能力が支配的なもっと発達した水準である。彼らにとっては、原始的水準より高度な象徴化水準との間に、絶え間ない往復運動がある。その結果として精神分析治療は、どの神経症者にも正常な個人にも見られる原始的な機能の部分については言うまでもなく、神経症患者だけでなく境界例あるいは精神病患者にも提供することができる(Jackson and Whlliams 1994)。