昨日、カーグの会場の通路で、篆刻展がやっていました。
じっくり見れませんでしたが、素敵でしたので資料を貰ってきました。
時間があればやってみたいなと、京都時代から思っていましたが、未だむりそうですね(笑)あれもこれもだと何も残せないし、どこにも到達できません。(本当の実力をつけての意味です。上辺だけなら何とでもなりますが......そんなのは絶対嫌です!)
カーグの作家達の作品や、バンドの演奏を見て、自分は生きているだけだ......と男性職員さんが言っていました。
この言葉が出るだけでも、逆にその人が凄い感性を持っているなと羨ましかったです。男には余裕がないといけませんし、男は他人の分まで仕事して丁度良いくらいだ!と誰かが言っていたのを思い出しました。
男性職員にやっと恵まれた気がしました。
その方は、ご自身で商売をされていて、息子さん達をきちんと育て上げられたので、生きているだけではありませんが、彼らの持っている何かが、彼にそういわしめたのでしょうね!
今日は、利用者さんの急な通院が発生したので、シフト上は休みでしたが、現場に朝の数時間だけ入らせていただきました。
帰宅後、昨日の疲れか(カーグ・バンドの後に豊橋で面談がありました)(笑)頭が使い物にならなかったので(笑)読書に当てました。
今回は今日読ませて頂いた箇所のアップですが、症例が長いので最後の箇所のみアップさせて頂きました。要約に思えますので、ある意味十分かと思いました。
サンドラーの名もあがっていたので、今回の購入分読ませて頂いたら、サンドラーもありですね!
現場で職員の心がずたずたになる時もありますが、ウィニコットを勉強して生き残る術を身に着けて欲しいなと思っています。
利用者さんだけではなく、職員の為にもそう願います。
第7章 重圧のもとでの分析的に抱っこすること
〜ビオンの論文「思索についての理論」A Theory of Thinkingから二箇所を引用して終わります。そこで彼は述べています。
「もし幼児が死にかかっていると感じるなら、幼児は自分が死にかかっているとの恐怖を母親のなかに喚起しよう。健全な母親はこれを受け入れることができ、治療的に対応できる。すなわち、その幼児はその怯えた人格を再び戻されるが、幼児がもちこたえるーその恐怖を幼児の人格が取り扱えるー形で受け取っていると幼児に感じさせるやり方でできる。もし、これらの投影に母親が耐えられないなら、幼児は、その勢いと頻度を増すことで成し遂げられる投影同一化を続けることを強いられる」(Bion 1967b:114-15)
「もし、幼児と乳房との間の関係が幼児がある感情、言ってみれば、幼児が死にかかっているとの感情を母親のなかに投影するのを許すなら、それから、乳房のなかにその感情が溜まっていることでそれを幼児の精神がもちこたえうるものにした後にその感情を幼児が再びとり入れることを許すなら、正常な発達が続いていく。もし、その投影が母親から受け入れられないなら、死にかかっているとの幼児の感情はそれが持っていた意味をはぎとられると幼児は感じる。ゆえに、幼児は、もちこたえうるようにされた死んでしまう恐怖ではなく、言いようのない恐怖nameless dreadをとり入れる」(Bion 1967b:116)
ここでビオンは幼児と乳房との間の関係を描いています。のちの発達段階での類似した過程が、私が著した臨床経過に描き出されています。放棄させようとするものすごい重圧に直面していたときに、修復された分析的な抱っこを保持しようとした私の心構えこそが、終局的に、私の患者がもちこたえうる形で、彼女自身の怯えている人格を彼女が受け取れるようにしたと私は思います。もし、彼女が求めていた身体での抱っこに私が頼っていたなら、中核的な外傷は凍結したままでしたでしょうし、永久に取り扱えないものとおそらく見なされていたでしょう。そこでは、患者は、もちこたえうるようにされた死んでしまう恐怖ではなく、それに変って言いようのない恐怖を再びとり入れたでしょう。