うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

明日の事と、血液型性格学を問われて性格というものを考える(中井久夫)


 明日を思い、先程仕事場(自宅の)の飾りつけを変えてみました。
当法人の最初から沢山の指導とご協力を頂いた理事の生前葬が明日の午後からあります。沢山の学びを頂いたので、三聖(老子孔子・釈迦)図にしてみました。
 自分は下手なギターで参加させて頂きますが、そんなことしか恩返しできなくて、申し訳なく思っています。
 もっと地域に根差した法人・施設にして恩返しができたらと、後悔念しか出てこないのも悔しいです。
 悲しい事でもありますが、これをきっかけにもっと真剣な態度で施設運営に当たりたいと思いました。自分たちが無償で理事をして頂いている方々に恩返しができるのが、それしかないので、本当に頑張りたいと思いました。
 あまり考えると、暗くなりすぎるので、中井久夫先生の以前読ませて頂いた箇所をアップさせて頂きました。
 中井久夫先生は、患者さんがリラックスできるのなら、なんでも活用されるんですね。そういう態度や柔軟さも勉強になりました。

 先日、主治医が待ってましたという顔で(非常ににこやかでした)診察室に入ると座っていました。前に座らせて頂くと、いきなりシチリアの話になり、この絵を東京の学会に行ったついでに買ってきた!と診察室に飾られた絵を指さしました。南イタリア的な明るい中にも人生の儚さが出ているタイル絵でした。
 患者さんが少しでも明るくなるようにと、配色も明るく漁師さん達が生き生きと働く素敵な作品でした。最近、そんな話が多くなってきています。自分の作品は暗いので(笑)明るい作品を作れと言われている気もしましたが、今更、方向性を変えるのはアイディンティティを変えろという事なので無理です.....。
 大阪でも、弟に作品は作っているのか?と聞かれ、本当に復活しないといけないのかなと、こちらも真剣に考えだしています。
 今回も無駄話が多くなりました。

 もう少しギターの練習をしてから寝ます。



続『臨床瑣談』中井久夫
3、血液型性格学を問われて性格というものを考える

10 さて、今のわが国ではABO型の血液型性格学が広まっている。なぜであろうか。わが国で宗教の力が大きくないことと関係があると私は思う。宗教は不寛容という大きな副作用があるが、一般に対人的配慮を簡単にする。文化人類学の調査者によれば、今から訪ねる未知の集落の宗教が分かるとほっとするが、その集落限りの宗教であるとか、全然わからないと大変恐ろしいそうである。些細な言動が実は重大なタブー違反で、次の瞬間、刀が首筋に閃くかもしれない。欧米人が日本人にどこか気味悪さを感じるのは、日本人の宗教心のありどころがわからないことにもあるのではないか。なお、日本人の血液型類型論好きは日本在住の外国人にはかなり知られている。
 日本人の作法は以前は「お国はどこですか」であった。薩摩であろうが肥後、大阪、会津であろうが、それぞれの人には、して喜ばれる話題、してはならない話題がある。また、わずかな知識から出発しても話しを広げてけっこう早く知人にしてしまう糸口になる。日本はなお多様性に恵まれていて、無口をよしとする地域も、気の利いた多弁を評価する地域もあるけれども、郷里を持たなくなった私のような者も多くなり、「お互いにA型ですね」「A型とB型は補い合う組み合わせですよ」式の言明が近づきのきっかっけにもなってきたのかもしれない。
11 ABO血液性格類型の他と異なる点を挙げてみよう。第一は物質的基礎があること、すなわち血液型物質の遺伝子が九番染色体P腕に載っていることである。もちろん、九番染色体にはリンケージしている遺伝子はたくさんある。
 なお、AB型はどちらかの片方の染色体にABとも縦に並ぶ場合もある。したがって、O型あるいはA型とAB型との結婚でAB型が生まれる可能性があることを指摘して、あらぬ誤解が生じるのを予防しておきたい。
 人のABO血液型の遺伝子型はOO,OA,AA,OB,BB,ABである。表現型、すなわち身体に実現している型はO,A,B,ABの四種類である。
 血液型物質は、糖蛋白と糖脂質から成り、赤血球の表面だけでなく全身に存在して、合計はかなり多量(百グラムの単位か)である。重要な間質、すなわち細胞間に分布している物質であろう。Oが基本物質H物質を持ち、AとBは酵素の突然変異によって、Aはアセチルグルコサミン、BはガラクトースがH物質についている。それだけの違いである。血液型性格学が、O型は類型化できないといっているのは、たまたまか否か、対応しているなあと思う。

12 一般に、ある性質に何らかの有害性があった場合、短期間に淘汰されてしまう確率が高い。ABO血液型は対立遺伝子に優劣の差が認められない例によく挙げられる。ただ、B型は、パミール高原あたりの一人にいつしか生じた点突然変異が世界に広まったものだという。これが事実であれば、拡散の過程ではB型に何らかの有利性があったかもしれない。また、北米中部の、氷河期に大氷河があったところより南のアメリカ大陸原住民には圧倒的にO型の人が多いと言いう。これは混血の進んだ現状でもそうだろうか、原住民だけを厳選した調査の結果だろうか。いずれにしてもいろいろな説明が考えられるが、決着はつけがたい。
 ABO血液型は人に限らない。ニホンザルには全部あり、オラウータンはO型だけだそうである。ニホンザルの群雑性とオラウータンの独居性とに対応させるのは話が出来過ぎている。もっとも、A,Bという突然変異が広まるのは群居動物のほうが速かろう。
 遺伝子は二十二対の常染色体と、一組の性染色体(XY)の上にある。事実とは異なるが、話を簡単にするために一本の常染色体の遺伝子数を一定とすれば、性格の二十三分の一がABO型とリンクしていることになる。平均でその程度である。二十三分の一は大きいかどうか。
 男女の生理的な違いは染色体一対としては格段に大きいが、これは性染色体としての特異な一組である。
もっとも、Y染色体は三つかそこらの遺伝子しか持っていない。また、性関連遺伝子は性染色体上に限られているわけではないそうである。もちろん、九番目の染色体による生理的な差もあってよいはずである。血液型性格論者は肌の色、肌の厚み、柔らかさ、容貌の特徴を述べている。これはありうる差であるが、なるほどそうかなと思う場合も、一義的でないという場合もある。いずれにしても微かな差である。
13 ところが、些細な差こそ重要であるという考え方がある。容貌は生理学的には些細な差であるが、この些細な多様性をめぐって美だ醜だと人類がどれだけ大騒ぎすることか。ホクロは、鯨の尾の模様と同じくかつては集団内の個体識別のマーカーだったろう。ある程度の遺伝性があるらしいが、両親のパターンが子に確実に再現されるほどではない。些細さと共にこの不完全さも意味があるだろう。それでこそ個性である。ABO血液型の四つの性格差といわれるものも含めて、性格の個人差すなわち個性もその程度の弱い相違であることに積極的意味があって、言動の適切な生物学的多様性を生んでいるのではないかと思う(第一、あんまりちがっては何かと困るじゃないか)。
 生物学は、生物学的多様性が種の存続に有利であると告げる。特に群居動物で文化のために協業する必要があるヒトには対人関係における言動の弱く些細で微妙な多様性がよい働きをしているのではないか。性格というものはそういうものであろう。科学的根拠があろうがなかろうが、ある一つの血液型を優遇したり、排斥することは集団の生き残りにマイナスである。ABO血液型遺伝子は優劣性のない例としてよく出される。A:O:B:ABの人口比が4:3:2:1というのもよい。
 些細な心理的差異の有用性は、男性だけの会議と男女混合の会議を体験するとよくわかる。大学教授会でもメンバーに女性がいるとおおむね男性の発言を比較的論理的で礼節をわきまえたものにした。また、一般に異性との関係を永続させる上で、心理的な些細な差であるが絶対に到達しえない部分があることが積極的な意味を持つ場合が多いと私は思う。未知はしばしば魅力であるが、それだけではない。

14 血液型性格論を聞いているとそれぞれ、なるほどそういう人がたしかにいるなあ、という、類型描写の巧みさがある。これが第一の長所である。次に、対人関係が主題になっていることである。これが第二の長所である。これがなければ話が盛り上がるまい。どれだけのパーセントかはともかく、「A型とA型とは恋愛に進みやすいが結婚目出には苦労する」とか。また、そういうことは血液型の組み合わせに関係なく他にも起こっているにちがいないが、多くの人に思い当たる例が一、二はあって、納得させてしまう助けとなるだろう。精神疾患の診断基準の次の版、DSM−Ⅴでは関係障害relation disorderが新しく登場する可能性がある。これは障がいが個人を超えることである。人と人の組み合わせが主題になることはまず間違いない。実はフランス犯罪学が百年以上前から問題にしてきたことだ。
15 私は主に血液型性格論を書物でなく人からきいた。その型の人が目に浮かぶほど描写がうまい人がいる。しかも、言動の集合であって、硬い一つのイメージではない。そこで、これだけ現実に普及しているものを使わない手はない。臨床の場面でも、相手に血液型を聞くと相手の過半数がリラックスする。「誰それはその型の典型ですか、なるほどそうだと思うところとそう思えないところは?」と問うほうが、相手を傷つけず、しかも本人だけでなく、配偶者、子ども、さらに簡単ながら、きょうだい、祖父母、いとこぐらいまでの話がきける。話はしばしば血液型を離れて思いがけない逸話も出てくる。この逸話というものが大きなヒントあるいはキーとなるのである。
 もう一つは、服薬の勧め方である。血液型性格論にしたがえば、科学的説明を求めるのはA型である。薬理学の歴史を話せばどうだろう。医師の人柄を信用すれば個々の薬を問わないのはO型となりそうである。信頼感をかちえるために努力を集中しよう。押しつけを嫌うのはB型ということになる。「どの薬物がきみに合うかの実験に参加してほしい。候補はこの三つ。どれかが当たるはずだ」と持ちかけるとよかろう。最後にAB型であるが、処方が決まらず、薬物マニュアルをめくりながら、あちらを立てればこちらが立たずと頭を抱え込む例が多かった。そこで、一般にそういう人には正直にああでもないこうでもないと迷いを示すことにした。
 この「仮説」は使えることが多くて、血液型を離れて相手をみつつ独り歩きしていった。いずれも、医師の語るべきことだからである。ただ、私の外来はなぜかB型とAB型が多く、それも他の医師とのトラブルによって紹介されてくる人が少なくなかった。これは最後まで謎であった。

16 私は、英国の経済学者ケインズの「私はパンフレットを風に投げ飛ばしながら時間の相においてたたかうだけである」を少年時代からのモットーの一つとしてきた。私自身の〝精神医学”は諺や喩えや詩歌なども雑然と入っていて、全体が危うい仮建築で欠損や矛盾がたくさんある。ABO血液型性格学も「口唇型」「肛門型」などの精神分析的性格学も面白いと思っているが、私自身が友人と会う時は類型化など全然していない。いや、むしろできない。人がいろいろな面、それも微妙に違う面を持つことが好きである。しかし、こうなると、親密関係の範囲はどうしても狭くなる。中間的な距離に入ってきた人の場合は、けっこう話題を引出し、対人関係の情報を与えてくれるきっかけになる。生理学的な意味のABO型と違っていても大した問題ではない。対人関係論を考えさせてくれるきっかけにもなる。オランダの精神科医リュムケが「深層心理学もいいけども、浅層心理学も同じくらい重要である」という、その浅層心理学にとどまるならば、である。
 私が教授だった二〇年前ころ、近畿の精神科教授が年一回集まって晩飯を食べる機会があった。話題は何と血液型を使っての人物評に落ちつくことが多く、また皆ほんとうによく知っているなあと感心した。人をほどほどにしか傷つけない批評ができる。精神科医は仕事を離れると浅層心理学でゆかないと心身がもたないという機微があるのだろう。人類遺伝学を専攻する教授だけが一人苦虫をかみつぶしていたのがむしろ気の毒であった。今はおおむね故人であって、いささか懐旧の情とともにその場のことを思い出す。

 二、三〇年前になるが、隣人にタクシー会社の管理者がいて、運転手にバイオリズムを教え、それにしたがって運転させたら、事故が激減したという。たしかに一ヵ月の何分の一かは用心し、そのうち安全運転が身につくだろう。つまり、成功であった。しかしこの会社はこの方式をやめた。バイオリズムを口実にして休む運転手が続出したからである。