給与計算も終わり、ホームセンターにネジを買いに行き、ネジが足りなくて、未完成だったバッグが出来ました!
地が地味すぎるのが今後の課題ですね(笑)
人間は下品なのに(笑)物を作ると綺麗に仕上がってしまうのが、目下の悩みです.......。
まあ、復活に向けての練習だと思えば、気持ちが楽になります(笑)
この上から、タッピングしようかな?と思っています。
どこにいても蚊に刺されるので、体に付ける蚊取り線香を買ってもらおうと、ホームセンターに行ったら、世界最高水準5倍効く!のどこでもベープが売っていましたので、こちらを買ってもらいました。
汚い足ですが(笑)昨夜、ひーひー王子の散歩の際に付けて行ったところ、全然刺されなかったので、今日は夜勤なので、夜の洗濯物を干すときにもつけてみようと思っています。果たして、刺されないでしょうか?
みんな刺されないのに、なんで自分だけ?といつも不思議でしかたありません......。
色々な事件があり、毎日気が抜けないのですが、昔からTVを観るのが苦手でした。何か番組の構成上、無理やりしゃべっている気がして、観ていてつらくなる時が多いからでした。今もあまり変わりませんが.....。
本当に大事な事は、言葉では表せないけど、社会の中で生きているのなら、避けられない事です。そんな思いの中で出会った文章です。少し前の物ですがアップさせて頂きたいと思いました。
私の禅・福岡伸一 (サライ2016・5月号より)私はいま東京とニューヨークに研究の拠点を持っています。最近アメリカにいて興味を持っているのは、日本語を母語としながら海外で世界的に有名になった人物のことです。トランス・ジャパニーズと勝手に名付けているのですが、その代表が鈴木大拙(1870〜1966)です。
アメリカでは1950年代から‘60年代にかけてビートニクといわれる若者が文学やアートの世界で活躍します。彼らは物質文明が引き起こしたさまざまな社会の抑圧をはねのけ、人間性の回復を目指しました。作家のジャック・ケルアック(1922〜69)、詩人のアレン・ギンズバーグ(1926〜97)などがその代表ですが、そんな彼らは挙って鈴木大拙に会いに行きます。
大拙は20年代後半に渡米し、英文で禅に関する著作を行ない、欧米の人に禅の教えを広めました。彼の著作はいまも多くの西洋人に読み継がれています。
彼らは、大拙の禅に何を見出したのでしょうか。それを解く鍵が「言葉」です。
この世界はある時点から、言葉によって成り立つようになりました。古代のギリシアにプラトンやソクラテスが現れ、ロゴスつまり言葉でロジック(論)を組み立てた。それが客観的世界とみなされたのです。
西洋思想は、すべてこの言葉による客観的世界で成り立っているとされたんですね。
アメリカで生活していると、時々言葉に疲れることがあります。アメリカでは沈黙は金ではありません。自分が何者なのか、これについてはどう思うか、絶えず言葉で物事を客観的に語らなければならないのです。
しかし客観的世界というのは、言葉というものが切り取った恣意的な図式にすぎません。いわば幻想のようなものです。
それに対して禅は、〝言葉以前の世界”にもう一度立ち戻ろうとするのです。
そんな禅の中には、言葉はやっぱりつくりものだっていうことがあると思うのです。禅が言葉で語れないというのは、ある意味、当然のことですね。
だけど、そこを何とか言葉で語る努力をしないといけない。それで生まれたのが「禅問答」だと思います。一見ロジカルではないんですが、真実を言い当てる方法として禅問答が考え出された。私はそんなふうに思いますね。
禅に学ぶ人生のしまい方
私が専門とする生物学の話をしますと、身体を構成する細胞の分子は絶えず分解されています。つまり生命体は日々変わり続けているのです。
ですから1年も経てば、どんな人間でも物質的には別の生命体になっている。機能の自分と今日の自分とでは違うのです。
しかし生命は急激に変わることを避けています。激変すれば必ず反作用が起こるからです。そこで生命は、持続可能性を維持するために少しずつ変わっていく。
「変わらないために変わり続けている」のです。私はそれを〈動的平衡〉と呼んでいるのですが、これこそ禅に通じることなのです。
禅ではよく「悟る」っていいますね。ただ何かを悟っても、次の朝起きてみると色あせてしまう。あれは何だったんだろうと思うけど、それでいいんですよ。
禅というのは、いわゆる社会の約束とは違うかたちで納得するものです。悟りは、ロジックを超えてある瞬間もたらされるものじゃないか。そんなあり方も、人間にとっては必要じゃないかなと思います。
竹を切った途端に悟ったというような故事もあるようですけど、そのときふっと、生きていてよかったな、そういう瞬間の感慨がその人を救うことがあるんですね。
それこそ禅の〈動的平衡〉です。
禅なんて、若者が近づけるはずもないし、興味もないでしょうね。やはりこれは一定の年齢を経ないと求める気分にもならないし、そういう機運も訪れません。
まさに『サライ』世代というか、言葉にがんじがらめになって、それに翻弄されて、そろそろ自分の人生のしまい方みたいなものを思うようになって初めて、禅とはなんだろうと気になるんだと思います。
そんなことを思いつつ、まず坐禅してみるのはどうでしょうか。