うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

『ビーだま ドローイング』と、今日のすろーじゃむと、第14章 情緒発達との関連でみた攻撃性より


7月10日に行われる『ビーだま ドローイング』のチラシができました!
 主催は『田原市肢体不自由児(者)を持つ父母の会』さんで、アトリエ・カーグがお手伝いをさせて頂きます。
チラシのデザインは、いつもお願いしているMさんです。いつも素敵なデザインをありがとうございます!夏らしくって素敵です。



 すろーじゃむでは、まだまだイチゴが採れていて、今日も皆さんで頂いた様子。まだ沢山花が咲いていました!


 おっちゃんは、事務の一日でしたが、忘れ物を届けに行ったついでに
引っ越しされた方が置いていった刈払機で、すろーじゃむの庭や畑の草刈りをしました!
 久し振りでしたが、体は覚えている物ですね(笑)
手はまだ震えていますが(笑)体はほど良い疲れで気持ちいいです!
やはり体育会系ですね!

 こちらも置いて行かれた物に、チンゲン菜とホウレンソウの種を蒔きました。

 こちらも置いて行かれた、トウモロコシの苗.....。プラグトレイの中で頑張って大きくなっていたので、休ませる予定の畑に畝を作って植えさせていただきました。追肥でぼっていくしかないですね!
 これまた置いて行かれたホースで水をたっぷりあげて来ました。


 ここであったが百日目ではありませんが、おっちゃんが来たから、学齢児さんの(男子です)入浴は任せたと、皆さん送迎に行ってしまい、バスの降車場所まで行かせて頂きましたが、本を忘れたので、以前、ネットで拾った、論文『二つの現実』−リアリティとアクチュアリティー 木下聖三を読ませて頂きました。2回読めましたが、木村敏先生の本を読んでいて、アクチュアリティについて調べた時に見つけたものでした。カントやハイデッガーまで遡らなくても良いのかも知れませんが、せめて中井久夫先生の本を読んだことがある方が、精神に障がいをお持ちの方々の支援をしてほしいと思います。
 簡単に処方をいじくったり、(病院にも言いたいですが(笑))人生を勝手に方向づけたりは、自分には出来ません。
どこかにご本人や家族の意思がなければいけないと思って居ます。


 少し前に読んだウィニコットですが、ウィニッコットは分かりにくいと言われているという事が実感できる(笑)箇所でもあります。
 でも、大事なことが書かれています。


第14章 情緒発達との関連でみた攻撃性
〜この考えは、通常次のような言葉で表現されている。つまり「乳幼児は、ニードへの完全な適応のもとではよく育たない。赤ん坊の欲望にあまりによく合わせてしまう母親は、良い母親ではない。欲求不満は怒りを生み、このことは乳幼児が高められた体験を得る助けとなる」。このことは本当であり、かつ本当ではない。それが本当でない限り、それは2つの要素を無視しているのである。つまり1つには、乳児が理論的な出発点において完全な適応を必要としており、それゆえ適応の注意深く段階づけられた失敗carefully graduated failure of adaptationが必要だということ。もう1つはその言い方が、体験の攻撃的かつ性愛的起源の融合の欠如を考慮の外に置いているのだが、他方では少なくとも理論的には、無融合状態de-fused state(あるいは前融合fore-fusion状態)が研究されなければならないということである。
 多かれ少なかれここに引き合いに出されたような言及を行う人びとは、あまりにも安易に次のような仮定をしてしまうことになる。攻撃性は、欲求不満に対する反応、すなわち性愛的体験の間の、つまり本能的緊張の高まりを伴う興奮の時期の間の、欲求不満に対する反応である、と。そうした時期における欲求不満に対する怒りがあることは、明らかすぎるほど明らかである。しかし、最早期の感情と状態についてのわれわれの理論においては、本能的欲求不満に対する怒りを可能にし、そして性愛的体験を1つの体験にする、という自我統合に先立って攻撃性があることに、われわれは心の準備をしておく必要がある。
 赤ん坊はそれぞれ、性感帯を持つ性愛的本能の潜在力を有していて、これが生物学的であり、そしてその潜在力は多かれ少なかれ、それぞれの赤ん坊にとって同じものであると言うことができる。対照的に、攻撃性の構成要素は、極端に可変的であるにちがいない。つまり授乳が遅れた時の欲求不満に対する赤ん坊の怒りをわれわれが観察するようになるまでに、赤ん坊の攻撃的な潜在力を大きくしたり小さくしたりするような多くのことが、すでに起こっているのである。性愛的潜在力に対応する攻撃性という観点から何かに達するためには、胎児の衝動に、そして静止よりも運動を助長するものに、そして組織が生き生きとしていることに、そして筋肉のエロティシズムについての最初の証拠にまで戻ることが必要となろう。ここでわれわれには、生命力life forceというような用語が必要である。
 確かにそれぞれ個々の胎児における生命力の潜在力は、それぞれの赤ん坊の性愛的潜在力がまさにそうであるように、多かれ少なかれ同じである。複雑なのは、乳児が携える攻撃的潜在力の量が、彼が出会ってきた対立物の量によることである。言い換えれば対立物は生命力の攻撃的潜在力への変換に影響する。さらに対立が過剰になると、事態は複雑になって、攻撃的潜在力を持っていても、それと性愛的なものとの融合を獲得できるはずの個人の存在にとっては、変換が不可能になるのである。 (出生前の)乳児における生命力の運命を詳細に考察することなしに、この議論を先に進めることはできない。〜



事務仕事は、午前中に大半が終わりましたが、後は県に提出する事業報告のみとなりました。(今のところは(笑))