うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ルーシー・リーと中井久夫の言葉(佐藤幹夫)と施設顔



 ルーシー・リー静岡市美術館まで、観に行って来ました!
もう素晴らしいの一言で、それ以上の言葉は見つかりません。
 勿論、バーナード・リーチの影響で東洋的影響は随所に見られますが、その影響を見事に自分の中で見事に消化・吸収して、排出しています。釉薬などの研究に熱心だったようですが、恐ろしい程の実力が一目で伝わってきました。
 親分は真剣に観ていて、中々外に出て来ませんでした。
出て来てからは、「何が違うのか?」としきりに考えていました。
 素晴らしい骨董品に出会った時に感じるのと同じ感覚に、自分はなりました。色と形はセットだと自分はいつも思って(感じながら)作品を作らせていましたが、彼女の作品はそれに質感もセットになっていました。当たり前と言えば当たり前でしょうが、それを完璧に近く表現できる人は中々いません。

 昨日の音の話ではありませんが、図録や彼女に関する書籍が数点販売されていましたが、本物を観た後では、買う気がしませんでしたが、展示方法もオーガンジーを上手くしきりに使っていたり、作品を置いている位置も作品の持っている、彼女の表現を最大限に引き出せるような高さにしていましたし(以上、親分談)、図録の表紙も素敵だったので買ってしまいました(笑)
 
 昼食は静岡おでんを食べましたが、関西人にはちょっと合わない味でした。茶業協同組合さんがお茶を飲ませてくれる店があったので、新茶を頂きましたが、玉露のように甘く・うまみのあるお茶で本当に美味しかったです。親分曰く「このお茶なら、お薄を点てなくても和菓子が頂ける」でも、いつもの抹茶の方が安かったです(笑)
 静岡市まではちょっと疲れましたが、一泊できるならまた行きたい街でした。まぐろの刺身でワインを飲みたかったですね(笑)



 お茶を頂いた店とつながっている所にこんな物がありました。
素敵なろぼっとですね!

 帰ってきてから、エアロスミス・ヴァンヘレン・ジミヘンを思いっきり弾いてから(歳がばれる(笑))、少しだけ本を(木村敏中井久夫)読ませて頂きました。


中井久夫の「言葉」 佐藤幹夫
『精神科治療の覚書』と『こんなとき私はどうしてきたか』を読みながら
 〜さらに中井氏は「治療過程を構成するパラメーターをできるだけ明らかにしようとする努力が臨床的意味」をもつという。しかしまたそのパラメーター(媒介変数)は無数にあり、すべてを枚挙する必要はなく、「重要な事は、本人と家族と治療者の三者の呼吸が合うかどうかである」ともいう。そして治療的合意の重要性を述べているのだが、その時氏が最も戒めていることは、治療者が必要以上に〝大きく″なることである。
 「医師が万能であるとみえればみえるほど、患者は小さく卑小で無能になる」
 この一節はいつ読んでもズシンと響いてくる。私の読み替えでは、次のようになるからだ。「教師が万能であるとみえればみえるほど、子どもは小さく卑小で無能になる」
 ズシンという一撃のあと、追い討ちをかけるように次の件がやってくる。
「もう一つは神田橋條治の『拒絶能力』に関するもので、患者の中に、はっきり人にむかって『ノー』といえる力を呼びさますことは、われわれの仕事の不可欠な一部である。/治療は、どんなよい治療でもどこか患者を弱くする。不平等な対人関係はどうしてもそうなるのだ。その不平等性を必要最低限にとどめ、患者が医師に幻想的な万能感を抱かず、さらりと「ノー」といえることが必要である。/両者は患者の後のひろやかさの大幅な増大となってみのりうるものだ。このことの重要性は精神医学には限らない」 (精神科治療の覚書P64)。 
 私の行き詰まりとは、いわば、彼らの「ノー」に出会っているときである。そしてそれは、正しい(というか、正当な)「ノー」なのだ。だからこそ、衝突をおこしているのである。ではその「ノー」は、どこに向けられているのか。
 具体的には、目標設定は適否とか(特に短期目標)、教材の適不適、留意事項の杜選さ、かかわり方の齟齬などなど、それこそ一つ一つの媒介変数の不協和が、知らぬ間に積もり積もった結果なのだろうと思う。しかしそのことをいくら検討してみても、行き詰まりは打開できない。ますます頭が煮詰まっていくだけである。
 「自然治癒力」と教育的関与の相互関係が崩れた結果、何が生じることになるか。ここで私は、もう一度、先の〝ズシン″に戻ることになる。ひょっとしたら、いつの間にか教師としての私が、必要以上に、〝大きく″見せようとしていたのではないか。
 「治療は、どんなよい治療でもどこか患者を弱くする」
 これは、すごい、という以外、言いようのない言葉である。また、言い換える必要もない。しかしあえて言い換えてみる。
「教育は、どんなよい教育でもどこか子どもを弱くする」
 一時期、この言葉をぶつぶつと心の中でくり返していたことがあった。しかしじつは、このように言い換えられたとき、この言葉は危うくなる。教師の権力性を批判するイデオロギーと、子どもは無限の可能性をもつとする子ども信仰のイデオロギーの間で、挟み撃ちにあう。このどちらかになびきかねない。
 教師の権力性も、子どもの可能性も、すべて間違いだとは言わない。そんなふうに指摘されて然るべき側面は確かにある。しかしそれが現場においてイデオロギーとして振りかざされたとき、教育の営みは教条化し、形骸化する。子どもとのかかわりは、イデオロギーなどよりもはるかに複雑で、混沌としていて、ときには矛盾に満ちたものである。
 中井氏はぎりぎりのところでこの言葉を発している。いわばこれは、誰かに、ある目的で向けられた言葉ではなく、自己省察であり、自己認識、そして自戒である。それ以外の解釈は不要である。不要な解釈はイデオロギーを付加しかねない。おそらくこのぎりぎりの均衡が、治療者や実践者の立つ位置なのであり、現場の渦中にあろうとするならば、この言葉は、ただこのまま受けとめておけばよい。



 施設に長い期間在籍されると、施設顔になると言われますが、それも利用者さん達を「小さく卑小で無能」にしてしまっているのでしょうか?
浜松のある入所施設の管理者さんが、「施設が職員の働く場になってしまっている」と言われていたのを、この箇所を読ませていただいて思い出しました。職員のいう事を聞く利用者さんが良い利用者さんで、聞いてくれない利用者さんは悪いとレッテルを貼ってしまっている現場も沢山見て来ました.......。自分が無能だからきちんと支援できないのだと思えないのでしょうか?色々と耳にしますが、自分は自分の無能さに気づいてしまったので、本を読むようになりました。まだまだ無能ですが......。いつも、ドクサの吟味を何度も心の中で感じていたいと思って居ます。