うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、ネコにあべ川もちと、「治療における強い関係と弱い関係」


 今日は風が強くなかったので、サンテパルクにホーム・ショート・日中一時の方々と行きました。ジョギング組と散歩組に分かれ、自分はジョギング組で、約二周走ってきましたので、今日も万歩計は12,000歩を超えました。しかし、沢山歩いたり走ったりするとお腹が空いてしまいついつい......。ですね(笑)



 静岡に行った時に買った、あべ川もちを食べました、最近お薄を点てるとネコさんが寄ってくるので先に目の前に置きましたが、興味なさそうで、眠ったままでした。(笑)
 魚などの好物をあげると、高齢のせいか?嘔吐が激しいので、最近はキャットフードばかりになっています。


 三冊目の本が、今日届きました。楽しみにしていた本です!
Amazonのポイントを使って、200円で購入しました。
 本は法人で購入しているので皆さんに読んで頂きたいです。
自分は4年前くらいに老眼になりかけましたが、なにくそ!と本を読み続けたら近視になり、目のカスミなどがなくなりました。
 みなさんに、みなさんも頑張って本を読み続けたら老眼が治るのでは?と言ったら、あんただけだ!と言われました(笑)
 今は苦も無く本が読めています。

 


 今日は日勤で帰宅後、少しだけ本を読ませて頂きましたが、先日読ませて頂いた箇所をアップさせて頂きます。
 中井先生の文章(言葉)も素晴らしいですが、佐藤幹夫さんの引用のしかたも的を得て、初学者には理解しやすく助かります。
 


中井久夫の「言葉」 佐藤幹夫
中井久夫『樹をみつめて』 (みすず書房)を読みながら―平和を維持することの難しさ
〜中井氏が、精神医学というご自身の専門分野のみならず、歴史、哲学、文学、人類学等々にわたり、どれほどの碩学であるかは評者などが改めていうまでもないことだろう。しかし評者が強く吸引されたのは、少し別のところだった。言葉のない子どもたちと付き合うとは、長いトンネルを手探りで進むようなものである。教条的な知識がものの役に立たないことは、すぐにわかった、経験から得る知恵もこちらにはない。勘にはいくらか自信があったとは言え、それだけで通用するほど甘くはない。 精神科医は患者との相互性によってつくられると、中井氏は言う。しかし、〝相互性″のつくり方にも、ヘボから名人までいる。中井氏が臨床の達人であることは、やはり、改めて指摘するまでもない。しかし驚くべきは、知を積み重ねることや考えることが、治療行為の何であるかを体感させるような、そのような記述となっていることであった。いわば、〝相互的”であることの徹底性において、氏の言葉はぬきんでていた。
本書、『樹をみつめて』にも、そうした氏の懐の深さが遺憾なく発揮されている。巨木はその大きさに比例するように地下深くまで根を張りめぐらせると言うが、本書もまさにそのような書物である。中核をなしているのは「戦争と平和についての感想」と「神谷美恵子さんの『人と読書』をめぐって」という、それぞれ百枚ほどに及ぶ文章だが、周辺に配されたエッセイもそれに劣らぬ読後の印象を残す。精神科治療について書かれた短文であっても、広く人間一般についての叡智に溢れ、こちらの思考を刺激してやまないのである。たとえば「妄想と夢など」とタイトルされたエッセイ。幻覚や幻聴、妄想など、「自己と宇宙を恐怖がおおいつくすとき、それは救いでさえあるだろう」「言語的カテゴリーや因果関係なしに広義のイメージの世界すなわち視覚、聴覚をはじめとする感覚の世界に直面することはたいへんに恐ろしいことなのだ」と指摘する。これはまさに、自閉症と呼ばれる人々の生きる世界ではないか。彼らの独特の言動は、私たちにとっては〝問題行動″にしか映らなかったとしても、彼らなりの、感覚世界の恐ろしさと折り合いをつけるための必死の方策なのである。あるいは氏は「言語はリアルな世界を減圧するために生まれたのかもしれない」とも書いているが、このことは言語への指摘として重要であるし、ヒトと言語との関係、ヒトと世界との関係についても大きな示唆がある。情報が溢れ、世界が多様化するにつれて、世界に対する減圧作用を必要としているかもしれないのである。 あるいは「治療における強い関係と弱い関係」というエッセイにある次のような一説。「たしかに親密関係は『最後の砦』として重要である。しかし、強い関係だけでは孤立から抜け出せない。社会にひげ根を張るには弱い関係の豊かさが欠かせないのだ」といい、「治療における強い関係の副作用」も指摘する。ここには、氏が治療関係において何に目を凝らしているか、その秘密の一端をかいま見せている。おそらく精神を失調させた人びとは、「弱い関係の豊かさ」を生きる術を失った人たちであり、それが恐怖以外ではなくなった人たちの謂いである。それとともに、「社会性の障害」とひと言で呼ばれているものの、微妙で、重要な側面が指摘されているとも感じるのである。むろん、社会生活を営んでいる私たちにとっても、自分の足元を眺め回すことを促す言葉でもある。





 みーちゃんの四十九日が迫ってきましたので、本当のお別れを言える準備をしました。後は花だけですね。


 明日から5月です!