うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

水行と「やさしさ」



 先日、日蓮宗のお寺の前を通っていたら、この様な物があったので、お寺の中に入って写真を撮らせてもらいました。
 この時期に、寒行・水行がある様ですね!
自分も小さなことに直ぐ腹が立つので(笑)鍛え直さないといけませんね!

 こんな写真が、水行を調べていたらありました。絵になりますね!

 



『看護のための精神医学』は第11章まで進みました。

第11章 神経症圏の病気
神経症とはなにか
神経症人格障害 
 〜最近、病気と人格障害との区別がつきにくい例が目立つようになってきた。なぜかはわからない。社会変化のためかもしれない。1970年代を境に、世界の多くの地域で何かが変わったことと関係がありそうである。内向的から外向性への変化といおうか。内省より行動化への変化といおうか。個人的(内省的)責任感よりも、自分の行動が他人に説明できるかどうかという説明責任が重視されるようになったのも、この変化のひとつである。これと同時に、他者に求められるのもが、第一にやさしさになってきた。「やさしさだけでは生きてゆけない。やさしくなくては生きる値打ちがない」(アメリカの作家:レイモンド・チャンドラー)やさしさへの求めは、愛されることの求めの前思春期的、あるいは幼児的なかたちである。目的達成を抑止されたかたちかもしれない。サリヴァンは、母親役に幼児が求めるものを「やさしさ」と表現した。「やさしさ」が得られないと暴れるのは、子どもでもしばしばみられることである。外向的な人が幼児のように「やさしさ」を求めることは、家族間あるいは患者ー治療者間が「権利」に近い関係になっていることとセットなのかもしれない。
「やさしさ」は家族の内外を問わず求められるようになった。これは家族の内と外の境界がはっきりしなくなっているからだろう。同時に「友人」のランクがずっと上がって、「孤独」はかつてのプラス価値を失った。
 この社会変化は、患者だけでなく治療の側にも影響しているかもしれない。治療者側に求められるものはまず「やさしさ」である。と患者も治療者も考え、攻撃はその不足に対してだ、という考えが通用している。しかし、「やさしさだけでは治療あるいは看護ができない」。「やさしさ」の反対が単純な「きびしさ」で、「やさしさ」が満たされていなければ「暴力」、という幼児性の呪縛から私たちも抜けでる必要がある。
「やさしさ」は、押しつけがましさなく相手を包むものであり、求め求められる関係を超えたものであって、求めて得られるものではなく、求められてさずけるものではない。これを忘れると「やさしい」人が突然キレて、むちゃくちゃになる。



 遅れて来た、6冊目のサリヴァンも少し気になって覗いてしまいました(笑)


 書類や会議の資料を作らねば!