うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

当事者に聞く 自立生活という暮らしのかたち

浜松自立支援センター 水島秀俊さんよりメールの添付で頂き、素晴らしく、勉強になりましたので、水島さんの許可を得てアップさせて頂きました。長文ですが、本当に考えさせて頂ける文章なので御一読願います。




拝啓
 聖隷福祉事業団の河本のぞみさん(聖隷看護ステーション住吉・作業療法士(OT))が、作業療法ジャーナル7月号(三輪書店)に、「当事者に聞く・自立生活という暮らしのかたち第1回」として執筆した連載を開始されました。1年以上もかけて、自立生活のモデルとなった私のケースや浜松自立支援センター、自立生活センター茺松を取材されてきました。その内容をワードファイル添付&以下にコピーしておきますので、よろしければご覧になってみて下さい。施設で生活する障害者の「施設から地域へ」の一考になってくれることを願いつつ・・・。

注) 出版される前の原稿ですので、内容が一部、書き直されている箇所があります。


浜松自立支援センター 水島秀俊



連載:当事者に聞く 自立生活という暮らしのかたち

第1回
施設を出るということ
―水島秀俊氏の場合
河本のぞみ

なぜ、今ごろに?
 私は訪問看護ステーションに所属するOTだ。介護保険でいえば、要支援や要介護の人、医療保険でいえば、障害をもった人、難病の人、がん末期の人の住んでいるお宅へリハサービスを提供しに訪問する。
 いつまで経ってもだが、「リハ」の意味するところ、その中身の一般に認識されている単調さ、貧弱さと、われわれが提供できると思っているサービス内容にはズレがある。さらにいえば、現実の生活というものの前には、ケアでも介護でもない「リハ」は、どんな内容を盛り込もうと、やはり残念ながら色あせる。
 自立を促すということ、「できない」を「できる」にすること、これはリハの王道であり、介護度を下げることは拍手をもって喜ばれる。もちろん、うまくいくことは喜ばしいし、そこに有効に貢献できるわれわれのスキルもある。だが今はそんな話がしたいわけではないのだ。
 「できない」まま暮らす暮らしの有り様があるということ、それを知っておく必要があると思った。「できない」部分は介助者にやってもらうという自立のかたち。それはダメなことでも、情けないことでもない。一つの積極的な暮らしのかたちなのだが、そしてそれは障害をもつ当事者たちがリハへの批判とともに必死で打ち出した態度表明であり、資源確保への体当たり作戦だったのだが、知られていない。私自身、よく知らない。
 自立に向けてトレーニングする。いいだろう。環境を整える。いいだろう。しかし「できない」こともあり、「できない」ときもくる。そんなときの、私、OTの役割もあるはずだ。
障害をもった当事者が発信している情報も、自立生活に関する本もすでに何冊もある。だが、実際のところ、どのくらい生活を支える基盤は整っているのか。その生活はどんな様子なのか。やはり地域によってずいぶんと違うものなのか。自分で介助者を見つけないと成り立たないギリギリの暮らしなのか。そんなことを知りたいと思った。これが、この連載を始める動機だ。

手始めに制度のこと少し
 現在(2012年〔平成24年〕9月)、自立支援法はまた手直しが始まる。だからここに書くことは途中経過だと思ってほしい。
 障害が重いとか軽いとかいうとき、最初にイメージされるのは動けなさだが、数で表すとしたら、身体障害者手帳級数がある。1〜7級まであり、1級が最重度、手帳が交付されるのは6級までだ。
 さて、この手帳で肢体不自由1級の障害をもつ人が一人で暮らすための支援を受けるとしよう。そのためには、まず障害程度区分の認定を受けなくてはいけない(手帳の級数はいったん忘れてほしい)。障害程度区分もまた1〜6まであるが、こちらは区分6が最重度、つまり受けられるサービス量が多くなる。単純にいって、ホームヘルプがどのくらい受けられるか、この量は時間で出されるが、これが市町村によって変わる。私の住む浜松市を例にとってみる(2012年9月現在)。
 障害程度区分6段階を横軸に、世帯の介護力a(低い)〜e(高い)の5段階を縦軸に、その兼ね合いでホームヘルプの支給時間が決まる。ホームヘルプサービスの内容は、身体介護、家事援助、通院介助、行動援護、移動支援とあり、必要に応じて30分単位で計上する。障害程度区分6、介護力a(低い)の場合、月185時間まで居宅介護(ホームヘルプ)を使える。単純に30日で割ると、1日6時間ちょっとだ。調理、買い物、掃除、洗濯、トイレ、入浴介助、更衣洗面介助、移乗介助、日常生活すべてに介助が必要な場合、これではとても足りないだろう。
 ところで、もう一つ「重度訪問介護」というサービスがある。これだと、障害程度区分6で介護力aの人は月356時間使える。これが適用になるのは「障害程度区分4以上で、二肢以上に麻痺があり、障害程度区分認定調査項目のうち『歩行』、『移乗』、『排尿』、『排便』のいずれも『できる』以外と認定されている者」であり、サービス内容は「居宅における身体介護、家事援助及び外出時における移動の介護を総合的に行う」。つまり、上の居宅介護が30分単位でトイレに30分、掃除洗濯に1時間と細かく内容が規定されるのに対し、重度訪問介護は4時間とか8時間まとめて利用し、その内容は身体介護でも家事援助でも外出でも、時間軸に沿って必要なことを頼める。見守り(待機)というものもあって、用がないときは隣室に控えていてもらう。
 重度障害で一人暮らしをしている人は、ほとんどがこの「重度訪問介護」を利用している。そりゃ細切れで何に何分と内容をあらかじめ決めて入ってもらうより、滞在して必要なことを介助してもらうほうがサービスとしては使いやすいだろう。
 だが問題が一つ。「重度訪問介護」を引き受ける事業所が、一般の訪問介護事業所に比べて大変に少ないのだ。
 これらのサービスの費用だが、介護保険が1割負担であるのに対し、自立支援のサービスは市町民税非課税なら0円、16万円未満なら上限9,300円で、目いっぱいサービスを使ってもそれ以上の負担はない。
 さて、制度のことは、あとは各地の自立生活者に聞きながら、生きる術を学んでいこう。

水島秀俊氏の暮らし 地元浜松から一番バッターにご登場願おう。自立支援法の何たるかを知らない私には、サービスのセルフマネジメントをされている水島秀俊氏はぴったりの水先案内人だ。
 1.経緯 水島氏は大学3年のときの交通事故で頸髄損傷(C5レベル)になった四肢麻痺者だ。病院に10年、施設に10年、そしてアパートで一人暮らしを始めて9年になるアラフォーならぬアラフィフだ。
 病院は受傷してすぐに運ばれた病院から国立のリハ病院、頸損のリハ専門の重度障害者センター等、転々とした。
 「病院に入院するとすぐに次に行くところを探すように言われるんです。それはとても大変で、もう流浪の民でした。重度障害者センター頸損の人が多いですから、そこで前向きに考えられるようになり、頸損で暮らすスキルを身につけようと思いました。ここは3年いてよかったんですが、2年10カ月で療護施設に空きが出たので、それで移りました。センターにいた頸損の人たちは、9割は自宅を改造して戻っていきましたが、うちの実家は築110年くらい経った古い日本家屋で、いずれも両親も年をとっていくわけで、実家に戻る選択肢は自分の中になかったです」。
 今ではさらっと話す水島氏だが、過去に撮られたビデオ映像を観ると、車の助手席に乗っていた自分だけが重い障害を負ったことをそう簡単に受け入れられなかったと語っている。
 「施設に移って、まずはほっと安心しました。もう移る先を探さなくてもいいのでね。数年はそこでの生活に慣れるのに必死でしたが、慣れてしまって単調な生活が続くと、漠然と外へ出ることを考えはじめたのですね。
 施設の職員で、『若いんだし、出ていってみたら?』と言ってくれる人もいて、自分でもひょっとしたらできるんじゃないかと。でも本当に出るまでは5年くらいかかったな。情報は何もないし、インターネットで調べたり、手探り状態で。浜松で重度の人が一人暮らしをしている話は聞かないし、数年はそのまま過ぎてしまってね。40代近くになって焦ってきた。このまま施設で人生終えたくないって。70、80になって人生を振り返ったとき、絶対後悔するなって思った」。
 施設を出ることを念頭において動きはじめると、まず家族が反対した。ご両親にしてみれば、実家でも施設でもないもう一つの選択肢、アパートの一人暮らしは想像がつかなかったろう。
 市の福祉課の職員に施設に来てもらって、制度のこと、福祉住宅やホームヘルパーのこと等の情報を集めた。可能性がみえてきて、施設の職員も一緒に家族を説得してくれた。
 折しも支援費制度ができたころだ。サービスが措置から契約へ、利用者の自己選択、自己決定が謳われだしたころである。市のほうから、支援費でホームヘルプを出せるので住宅が決まったら知らせてと言ってきたのだ。
 さて、アパートを探すのが最難関だった。不動産屋にEmail、FAXを送りまくったが、障害のことを書いていたので2/3は返事がなかった。返事をくれた不動産屋に1件ずつリフトタクシーで出かけ、物件を紹介してもらった。施設のある山の中から町中への移動だけでもひと仕事。夕方には戻らねばならない。10カ月間、毎月1〜2回、気が遠くなるような家探しが続いた。やっと見つけた現在のアパートも、最初は管理会社の人に車いすの人がいて他の入居者が不安がると困ると言われたが、ヘルパーが来ること、火の心配はないこと等を説明して、やっと入居にこぎつけたのだ。
 アパートを見つけて実際に生活を始めるのに9カ月間の準備期間をおいている。施設を去ったのは2003年(平成15年)9月、取材時でちょうど9年だが、一度も入院することなく過ごせている。
 2.暮らし 現在、8〜11時、13〜17時、18〜22時という基本シフトのホームヘルプだが、時間は外出等により自在に変化する。1日13時間、月403時間だ。あれ? 浜松市の重度訪問介護は最高356時間ではなかったか。
 「当初は朝昼晩3時間ずつで制度内に収まっていましたが、活動が広がり外出が増えて時間が足りなくなり、少しずつ市と交渉して増やしていきました」。
 そう、制度は意外とゆるみをもっているのだ。
 水島氏の暮らしの様子をざっとスケッチしてみる。入浴のために行くデイサービスの日は、朝7時15分にヘルパーが入る。そこに同行させてもらった。ヘルパーFさんはアパート暮らしの最初から入っている人だ。
 鍵を開けて玄関から入り、水島氏の居室であるダイニングキッチンに到達する1分の間に、何がしかの手順が進んでいる感じだ。寝ている水島氏の部屋に入り、カーテンを開け、枕元の携帯電話を充電する。夜間は一人の水島氏にとって携帯電話は命綱だ。かけているタオルケットを取り、体位を変え側臥位にし、朝食を準備しベッド枕元に運び、食べるのを見守り、一部は介助し、歯磨き、ひげ剃りは自助具ホルダーで彼が自分でやっている間に掃除機をかけ終わり、ひげの剃り残しを剃り、タオルを渡し、仰臥位に戻し、腹部を叩いて押して残尿がないように尿を絞り出し、清拭、着替え介助、リフトで電動車いすに移乗し、眼鏡をかけ、両手に装具をつける。するすると滞りになくそこまで進む。繰り返される日常行為の、無駄のない動きと充実。
 Fさんは慣れているのでほとんど指示はいらないが、初めて入るヘルパーだと一からすべてを指示し、3カ月くらいかけて覚えてもらうという。
 ところで、なんで寝たまま食べるの?
 「病院ではギャッジアップして食べていたんだけど、センターへ行ったら寝て食べるんでちょっとびっくり。人手がなくて起こせなかったのかなあ。で、寝て食べるのに慣れちゃって。外出したときやデイのときは、車いすで食べてますよ」。まったく暮らしのかたちに正解はない。
 車いすに坐ってまず毎日やっているのが上肢のストレッチだ。これは朝入ったヘルパーの仕事。Fさんは慣れた様子で肘を伸ばし、肩を後方に伸展させる。
 その後は右手にパソコンのキーボード用スティックホルダーをつけ、彼はパソコンに向かい、Fさんは洗濯等の家事援助に入る。会議等で外出するときは、Fさんはそのまま外出援助に入る。一度市のタウンミーティング出席のときは、Fさんは横で意見のやり取りの記録をしていた。文字通り、水島氏の手となっている。
 身体管理は、彼は徹底してじぶんでやっている。褥瘡は最も気をつけなければならないが、皮むけを発見すると、3週間は寝たまま過ごして治す。
 「今は褥瘡ができそうなところはパーミロールを保護的に貼っているので、今年は寝ずにすんでいます。トイレはねえ、一度外で失敗しちゃうと、もう不安で町に出られなくなるんですよ。病院に戻ると固い便はダメって下剤を処方されるんだけど、人に会う生活ではいつ便が出てもいいってわけにはいかないから、排尿排便のコントロールは絶対必要。今は排便は週2回の訪問看護で摘便してもらう。排尿は今はあまりされていないみたいだけど、膀胱括約筋を切る手術をしていて、みぞおちを叩いて出す膀胱訓練を受けているんです。出かけるときは、それで絞り出していきます。僕は車いすに坐っちゃうと尿は出ないのです。溜まってしまって尿閉を起こすと後が大変になりますから。おしっこが白濁していないか、毎回自分で確認します」。
 Fさんが続けて言った。
 「水島さんが見えないところの皮膚なんかは、私たちが気をつけています」。
 入浴はデイサービスと割り切っている。
 3.仕事 水島氏は大学で水産を学んでいた。教職を取っていて、中学か高校の理科の教師か、水族館に務められたらと思っていた。そんなこともあって、施設生活のころ、職員の子どもに学習支援をしていた。アパート生活を始めてからも、子どもたちが勉強をみてもらいに通ってきていた。その子たちが大学生になってしまった後は教えることはしていない。口コミでまた縁があったら教えたいと思っている。
 今の水島氏は、ヘルパー事業所ぴあねっとの理事、浜松自立支援センター(浜松CIL)の運営委員、自立生活センター濱松(CIL濱松)の自立生活プログラムの講師をしている。自立生活センター(
CIL:center for independent living)に関しては別項でゆっくり紹介しよう。簡単にいうと、障害者自身が運営するサービス事業体、運動体で、1970年代に米国で始まったものだ。
 ぴあねっとやCILの会議で、週1〜2回出かける。また彼は釣り同好会ハゼドン倶楽部を主催しており、月1〜2回、多いときは毎週釣りに出かける。
 釣りはすべて同好会の定例会であるから、毎回釣り場の決定、釣りの方法や海辺の情報を会員に流し、終了後は釣果や会員の活躍ぶりが写真入りで配信される。またHPではリール固定の自助具等が紹介されている。
 現在、彼の生活は6名のヘルパーによって成立している。このヘルパーのスケジュール管理は彼の仕事だ。ヘルパーが変わるときは介助手順を一から伝えなければならないし、相性というものもある。だが、彼はヘルパーを育てるのも仕事だというスタンスでいる。
 収入は特別障害給付金、特別障害者手当、交通事故の介護料等でまかなっている。彼は受傷時大学生で、無年金者だったので、障害年金を受け取れない。そういう人たちの救済でできたのが特別障害給付金だ。ぴあねっとの会議は勤務扱いなので、時給(750円)で報酬が出る。
 4. 生活をつくる アパートでの一人暮らしを開始するにあたって、自分でヘルパーを探すという大仕事があった。たぶん、ここが一般にわかりにくいところだ。ヘルパー事業所は介護保険対応のものがたくさんあるではないか。自立支援では使えないのか。
 いや、表向きは使える。だが実際は難しい。水島氏の言葉を借りると「夜間対応をしていなかったり、お盆や正月が休みだったり、自薦ヘルパーを登録するのが難しかったり、利用者の手足の代わりになって動くという考えが希薄だったり……」。
 高齢者介護と障害者自立支援の看護とではやはり構えが違う。
 水島氏は施設の退職者等に必死で電話をかけてヘルパー探しをした。Fさんは美容師として水島氏のいる施設に行っており、彼のことを知っていた。「介護職の人がさっと移乗介助するのを見て、あんなふうにできるのっていいなあって思ったんです。水島さんが施設を出るので介助の人を探しているって言われたとき、すかさず『ハーイッ』って手を挙げたんです」。水島氏がアパートに移る4カ月前にFさんはぴあねっとに登録し、月3〜4回研修をして、水島氏の介助の仕方、生活をどう組み立てていくか、具体的に決めていった。
 「もうすべてが初めてですから、無から障害を知るということからです。『動かないってどういうこと?どんな感じなの?』って聞くことからです。水島さんはもうそういうことが聞ける感じになっていたからよかった。受傷して3年くらいの人には聞けない。恐る恐る探りながらになっちゃいますよ」。
 最初の何年かは、週6日、日中ずっとFさんが入っていた。お互いに生活がかかっているから、具合が悪くても行くことがあった。水島氏が入院でもしたら、即収入が無くなるので、「私も元気でいるから、あなたも元気でいてね」ともう必死だった。
 それからの9年、今ではベテランヘルパーのFさんは水島氏のところは週3回、他に9人の利用者のところへ訪問し、ニーズに合わせた介助をしている。
 「介護保険のヘルパーと身障のヘルパーは違いますね。われわれは本人の手足になるということを徹底して叩き込まれます。自分の意志は出さない。だから『ん?』と思うことがあっても、例えば食べ物からちょっと変な匂いがするとき『臭っていますよ』って言いますけど、本人が食べると言ったら食べてもらう。言われたことだけをやるって徹底しないとキリがないですから」。
 水島氏をみていると、「そこを拭いてください。あ、そっちは拭かないでいいです」と一つひとつ指示を出す。これは指示出しという一つの技術だなと思う。自立生活に必要な技術。
 「施設っていうのは、どんなにいい施設であっても、与えられた枠の中で働く。施設に自分をはめて順応させていく。自立っていうのは自分で自分の生活のスタイルを組み立てること。これ、あたり前のことだけど、施設にはないんです。でも、自立って自己管理の世界だから、身体の調子を悪くする人もいます。僕も施設を出て1週間で褥瘡ができてしまいましたし。施設を出るのはやはり絶対に戻らない、もうどんな荒海だって行くんだっていうエネルギーが必要です」。
 施設を出て120%よかったという水島氏の釣りのことをもう少し紹介しよう。釣りのときに入るのはやはり水島氏がいた施設の職員だったMさんだ。フィッシングヘルパーと命名されたMさんは、釣りの日は朝から夜まで14時間勤務となる。
 私が同行した日はサビキ釣り。この方法だと竿を持てない水島氏はもっぱら口頭で、「この辺で。あ、もっと手前に寄せて」と指示を出し、Mさんが竿を持って釣る。Mさんの腰回りにはちゃんと救命具が水島氏から提供されていた。投げ釣りの場合は投げる部分はMさん、あとは車いすに竿を固定し、水島氏の手にはめた自助具で、彼がリールを巻くそうだ。長時間にわたる車いす座位は、当然除圧の工夫が必要だ。水島氏は釣りにちゃぶ台を持っていく。車いすごと倒して上体をちゃぶ台に寝かせて除圧する。
 海という大きな場所、こういう楽しみ方があるということ。ハゼドン倶楽部の日は車いすの人が何人も参加する。施設の職員も、介護タクシーの人も、倶楽部のメンバーだ。思いがけなかったのは、水島氏のお母様もメンバーだったことだ。50代に手が届こうという彼のお母様だからご年配のはずだ。自立生活を心配していたその人が、にこやかに1人で釣りに参加されていた。
 一緒に暮らし、家族介護となっていたら、たぶん築けなかったゆったりとした関係が、自立した息子と自立した母の間にあった。

 承諾を頂いたメールにこちらの体の心配と『またお会いしたいですね。』との温かいお言葉。御自身の方が大変なのに、頭が下がります。
当施設の研修の講師になって頂きたいと思っていますので、その節は宜しくお願い致します。
 彼とは同い年です。

補足:『膀胱括約筋を切る手術をしていて、みぞおちを叩いて出す膀胱訓練を受けているんです。』の部分ですが、自分が水島さんの支援をさせて頂いた経験から、みぞおちではなく、腸骨辺りを軽く叩き膀胱を収縮させてから膀胱に圧を加えると思われます。