うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

沢山の本を並行読み(笑)と、日本人は自国への偏見を捨てよ~ゲイツ財団幹部が語る「新・国家論」と、Scarf & the SuspenderS - からっぽ と、【創始的な暴力を見定めることは、聖なるものも自らの中に一切の矛盾したものを統合化しているということを理解することである。】と、 これをジラールは「本質的暴力」とよび、それに対して、差異を生み、秩序を打ち立てる暴力を「創始的暴力」と呼ぶ。

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 教科書と並行して、教科書で分からないことを理解したり、自分の目標の為の本を同時に読んでいますが、結局、どれも繋がっていて、根底には4Pとかマーケティングがあり今、どの本を読んでいるのか?分からなくなってしまうことが多々あります。

 本当はもう2冊並行しています。サイモンのシステムの科学と、コトラーの本です。最終的には、それら全てが自分の中で統合され、自分なりの理論となって、社会貢献できればと、考えています。精神分析の本を読み漁ったのも、現場では非常に役に立っていますし、それを周囲が感じ始めてくれ、実践してくれ始めましたので、今度は経営に対して同じことができればと考えています。自分は貧困家庭でしたので、最終的には福祉全般を扱えるようになれればと思っています。
 

  そんな考えの中で、下記の記事が目につきました。言いたいことは良くわかりますが、まだまだ日本では、自信があったとしても、謙虚さも同時に出さないとバッシングされる恐れがありますね。

 東京サウンド周辺を覗いてしまうのは、中央に向かっていきたいとの思いの現れでしょうか? フロイトの理論 原因は過去.......。勉強してますね!言葉を紡ぐなら、沢山のボキャブラリーが必要ですものね!


 

  知らぬ間に(笑)、皆藤先生に戻っていました。創始的な暴力というのは興味がありますね。

 

 始的な暴力を見定めることは、聖なるものも自らの中に一切の矛盾したものを統合化しているということを理解することである。

 盾と見えるのは、聖なるものと暴力と異なるからではなくて、暴力がその暴力自体と異なっているかのように見えるからなのである(ジラール 一九七二)。

 

  精神分析と経済学が繋がりましたね!

市場経済と調整原理
新古典派レギュラシオン学派の比較を中心
佐々木 崇暉よりhttps://oshika.u-shizuoka-ken.ac.jp/media/10_07.pdf

 アグリエッタの、このような論理はR.ジラールの暴力論に依拠している。ジラールによれば、あらゆる社会制度の発生の起源には人間の欲望の暴力がある。この暴力を厄払いし、鎮め、規制するために聖なるものが制度として打ち立てられるのである。では、暴力はなぜ発生するのであろうか。それは、人間欲望の模倣的性質から生じる。つまり、欲望とは自立的に存在しているのではなく、つねに他者からの借り物であり、第三者により媒介されている。それゆえ、ある主体にとって他者の欲望は模倣の対象であると同時に、競争相手=障害でもある。この相互に模倣しあう競争が自己と他者との区別を消し去り、暴力を感染させ無秩序と混沌を広める。
 これをジラールは「本質的暴力」とよび、それに対して、差異を生み、秩序を打ち立てる暴力を「創始的暴力」と呼ぶ。ある社会が本質的暴力により敵対や無秩序が蔓延したとき、個々に分散した暴力をただ一人の犠牲者に集中させ、「満場一致の暴力」によって差異を産出し、社会の秩序を回復させる。それ故、社会的諸制度は欲望の暴力を規制し、秩序を創り出すと同時に、暴力を伝導してゆく回路でもあるため、コンフリクトが激化すると諸制度そのものを変えざるを得なくなるのである。つまり、制度による調整そのものが一時的であり、可変的である27)

アグリエッタの、このような社会制度の発生の論理は、明らかに構造主義への批判を意味している。構造主義新古典派とは異なって社会を実体に還元しない。構造主義によれば、社会とは実体ではなく、言語として構造化されたシステムであり、規則、規範といった差異化のシステムから成立している。しかし、構造主義は、この構造的統一を所与のものとみなす。これに対し、アグリエッタは差異の発生の過程を捉え、模倣競争による差異の消滅と「満場一致の暴力」による差異の産出という「制度の両義性」概念によって、差異化の論理を発生論の視点から捉え返したのである。