うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【原初なる一、つまり分化がまったくない状態、という概念は、多くの人たちにとって、受け入れることが非常に困難な概念です。】



 今日の日中は、インフルエンザが、田原でも警報レベルになったので、うたたね内で、過ごしました。
お茶会をしたり、音楽を聴いたり

 絵を描いたりして、ゆっくりして頂きました。
関東などは大雪ですね! 暖かかったり、急に寒くなったりで、体調を崩されている方が多いので、皆さんもご無理をされずにして下さいね。


 本は早めに出て読んだり、学齢児さんのバスを待つ間に読みました。
佳境に入りましたね! 変な(笑)説明よりも、読んで頂いた方が良いと思われます。



第10章 原初なる一と共生
 原初なる一、つまり分化がまったくない状態、という概念は、多くの人たちにとって、受け入れることが非常に困難な概念です。不安の中でもっとも原初的な精神病的不安、つまり破滅不安(死に対する不安ではありません)を引き起こすからです。 自分のアイデンティティを喪失するとか、あるいは底なし井戸−地獄、に永遠に落ち込んでしまう、という考えは、非常にぞっとさせるし、混乱させるので、わたくしたちの誰もが避けようとします。 この考えの理論的帰結は、あらゆる分離や分化が存在しなくなる、つまり、あらゆる両極性とあらゆる区別が消えてしまうある地点がある、ということです。そこでは生と死、快感と苦痛、希望と絶望、愛情、憎しみ、破壊性と創造性、あらゆる人、場所、物事は一つであり、同じものなのです。ただ一つだけがある、そして他には何もないのです。

 



〜一方、共生はすでに自然界で認められているもので、それゆえ受け入れるのは容易です。植物や動物には、共生的関係にあるものがいます。それは依存的関係性で、どちらのパートナーも、もう片方がいないと生きられません。しかしそれらの有機体がどれほど原始的であっても、両者には、常にある程度の区別が存在します。つまり各々には、相手が存在するのです。それは二者関係なのです。 人の生活において、胎児は寄生的です。母親は胎児がいなくても生きれますが、胎児は母親がいないと生きられません。出生時の分離か意味しているのは、母親はもはや直接には、乳児のすべての生物学的システムを提供しないということです。乳児は呼吸し、食べ物を吸収しなくてはなりません。だが、乳児は環境に依存したままですが、もはや寄生的ではありません。乳児は共生的になり得るし、後にはますます発達して、かなりの自立をするようになります。 普通の乳児では、「普通に期待できる」あるいは「促進する」環境が提供されると、まったく未分化であるという心的状態は、非常に短くなることがあり、破滅不安は、生じたとしても最小限で、容易に処理されます。しかし、そうした環境が提供されないと、未分化部分は妄想として持続します。つまり、乳児の生物学的変化を十分に支えるための環境的な変化がもたらされないと、こうした部分は変わらないのです。それらはその後、精神病の基礎を作りますが、そこでの主な不安は、破滅不安です。精神病の程度、つまり心的状態のスペクトル内での位置は、未分化部分の大きさによるのです。 比較的少数ですが、寄生状態の発達へと向かうことになる人たちがいます。その状態で、永続的に依存し続けるのです。精神病患者の中で何人かは、ある種の施設でしか生きていけませんし、そうでない人も、一生、薬物が治療者の「維持量服薬」が必要です。 共生もまた普通の乳児の一部として現われますし、そこからの発達も普通に生じます。困難が生じるのは、自分自身が共生段階から十分に抜け出せないで来た母親、との関係に子供が固着するときです。 この場合にも、まだいくらか破滅不安があるのかもしれませんが、ここでの困難はむしろ、アイデンティティ感覚の、つまり自己感の確立困難であり、通常の成熟した独立と他者との相互依存に耐えうること、の両方へ向かうことの困難です。 乳幼児と児童の観察と分析は、共生とその解決への認識と知識を、非常に豊かにしてくれました。 成人の患者の治療、特にスペクトルの精神病側の端により近い患者たちの治療がわたくしに教えたのは、(妄想的)未分化部分、そこでは事実としてのアイデンティティが要求されるのですが、はしばしば縮小されうること、しかしそうするのは、糊のついた面が貼り合わさって固くくっついた二枚のセロファンテープ、を引き離そうとするようなものだ、ということです。 しかし、原初なる一と共生という心的現実はともに、確かに価値あるものです。それらがないと、共感も、忍耐も、相互関係も、そして関係や共存に必要なあらゆる現実的な能力、もありえないでしょう。