うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむと、お月見会と能衣装展と、【私が述べたいのは、この「限られた状態」において作動している機制についてなのである。転移状況での優しさや支持だけではこれらの患者たちを扱うには不十分である。彼らの心的過程や空想や振舞いの底にある構造についての徹底した知識が、情緒的な理解とともに不可欠である。】


 朝、ひーひー王子との散歩で、笹を頂いてきました。
なんとなく玄関に飾ってみたら、淋しかったので(笑)色々置いてみました(笑)
 修善寺に行った時に、ゆうこちゃんのお土産に買ってきたはずの、鰯チョコレートが今更(笑)出て来たので、添えてみました。


 今日は、シフトでは休みになっていましたが、事務仕事と入浴介助があり、事務仕事をさっさと片付け、早めにすろーじゃむに行き、こちらも、さっさと除草や掃除をして、余った時間で、ギターを弾きました。

 写真を写していたら、そういえば、こちらに来たのは、音楽と農業をしたくて来たんだった(笑)と思い出しました。



 今日は、田原市博物館で、お月見会があったので、渥美から帰ってすぐに、お薄を頂きに行って来ました。

 開催中の、能衣装展?も無料で開放していたのでじっくりと見させて頂きましたが、京都ばかり思い出してしかたがありませんでした。
どこの所蔵品か、明記していなかったので、学芸員さんにお聞きしたら、山口能衣装研究所さんのものでした。
 西陣ですね!
 

 本は、支援学校のバスを待つ間に結構読む事が出来ましたが、その時は、マーサ・ハリスを読んでいて、下記は少し前に読んだ箇所です。
理論と言うより、現場感が非常に出ていて、技法とでも呼んだ方が近い気がしました。
 精神に障がいをお持ちの方だけではなく、知的に障がいをお持ちの方々にも参考になる箇所です。


1.ボーダーライン患者におけるシゾイド現象

 J・ヘンリ・レイ

 ゾイドというあり方
 〜ゾイドそしてボーダーラインの患者が精神科医の前に現れるのは、彼らが20歳台前半のときが多い。彼らは他者とうまく接触できないと訴え、暖かみのある安定した関係を維持できないことに気づいている。実際彼らが関係を深めようとすると、その関係はただちに依存傾向の強いものとなってアイデンティティの障害をもたらす結果となる。彼らは急速かつ一過性に対象群と同一化し、強い不安を伴ったアイデンティティの喪失感を経験し、自己の断片化もくしは解体の恐怖を覚える。彼らが確固とした性同一化を確立していることはまずなく、男らしさや女らしさの体験にとまどっている。彼らは同性愛者ではないが、そうなのではないかと怯えており、愛情対象群選択やその選択の試みがぐらついているだけである。彼らは他者に対して、要求がましい支配、操作、脅かし、おとしめるといった態度を示す。彼らは彼らの病気について社会や他者を非難し、容易に迫害的になる。このことは、彼ら自身についての誇大的な考えと関連しているようである。実際、彼らの感情は小さいか大きいかという空想に支配されている。ちっぽけで保護もなく危ういと感じて怯えているとき、彼らは抑制のきかない怒りやさまざまな衝動行為で自分を守ろうとするであろう。彼らの異常な情緒性のもうひとつの面として、彼らが訴える特有の不毛感がある。このことは、彼らが病む特殊な抑うつ、すなわち、退屈感、役だたなさ、興味の喪失などを特徴とする離人性の抑うつにも現れてくるが、これは本物の抑うつにある苦痛に満ちた面を決定的に欠いているけどこの無気力状態とともに、アルコール、薬物、大麻、刃物による自傷、倒錯、性的乱脈などによる刺激や感覚体験の追求が認められる。離人や実感のない体験の訴えと同様に、さまざまな異常感や身体イメージの障害もしばしば訴える。彼らの身体自我は、彼らの人格や自我や自己と同じく、構造化されておらず不安定である。彼らの潜在的な混乱の状態はしばしば顕在化する。
 彼らの作業能力はまちまちである。治療を求めてくるとき、彼らはしばしば学業や仕事を諦めていたり、大学水準には達したであろうにもかかわらず、肉体労働や低水準の職についていたりする。しかし、ある構造化された状況で働いているときには、彼らの作業能力は保たれている。


私が述べたいのは、この「限られた状態」において作動している機制についてなのである。転移状況での優しさや支持だけではこれらの患者たちを扱うには不十分である。彼らの心的過程や空想や振舞いの底にある構造についての徹底した知識が、情緒的な理解とともに不可欠である。


 〜正常な対人関係では、全体自我のある面が、もうひとりの人物の自我のある面と調和しながら交流している。この交流は統合された自我の水準での関係である。さらに正常なふるまいにおいては、愛や憎しみのある面はさておき、私たちが具体的であろうとする場合には、自我は意識されたものである伝統的なサインや意識されていたる無意識であったりする象徴を利用するが、これらはいずれも表象水準にあるものである。これとは対照的に、シゾイド・コミュニケーションはしばしば“商品”merechandauseの水準でなされる。それは主体が“もの”を与えられたり“もの”を受け取らされたと感じたり、“ものごと”が自分になされているといったある種の物々交換的合意の水準である。


 〜生後間もない頃、母親の発言は子どもにとって母親の他の部分と同様に、母親の知覚部分として体験されているということは心理言語学者に広く支持されている事実である。さらに、おおむね正常な人は、容れ物のどこかに置かれている対象としてではなく人personという点から考える。しかし、それとは対照的に、これがまさにシゾイド思考が機能するところなのである。思考とは、どこかに包み込まれているが、別のものの中へと放出される物質的対象群なのである。そして、その包み込んでいる対象でさえ、それ自体がどこかに包み込まれているのである。