うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむと、伊良湖ほんわかフォークジャンボリーと、【 真の償いにおいては、それらの前の要素に還元できないかもしれない一定の帰結が損傷引き続いて起こります。】


 すろーじゃむの有効利用をしようと、今日もすろーじゃむに行きました!
暑いので、水分補給をまめにしていますが、コップを間違えないように(間違えたら、新しいのだしますがw)名前と似顔絵(メッチャ下手w)を書いておきました。(笑)
 良い毛糸が沢山眠っているようで、少しうたたねに持って行くと、女性職員がいっていましたが、おっちゃんは活発な男子組の担当だったので、

 堀切のヒマワリ畑に行って、迷路?を男子と歩いて来ました。
この前まで菜の花畑だったところです。北海道の北竜町のヒマワリには到底勝てませんが(菜の花も滝川には勝てませんが)それはそれで、楽しませて頂きました!


 仕事が終わって直ぐに、文化会館のホールでやっていた、伊良湖ほんわかフォークジャンボリーを見に行かせて頂きました。
見ていたら、美女が前を横切り隣の席に座ってくれたので、ラッキーと思ったら、なっちゃんのお母さんでした!
 美女は美女ですね!なっちゃんのお母さんの同級生が、フォークジャンボリーの関係者とのことで、朝から見ておられたとのこと。羨ましいですね!
自分は1時間半くらいしか見る事ができなかったので、プログラムを見ながら想像していました(笑)
 自分はやはり、見ているよりも参加したいなと思いました!周囲から歌は唄うな!と釘を刺されていますが(笑)



 今日も早めに出て、ファミマでコーヒーを飲みながら、本を読んでいました。
アップはその箇所です。しばらくは、クラインの復習が続きそうです。





Klein 自身は、償いは反動形成ではない、すなわち、否認や打ち消しのように反転可能なコインの単なる裏側ではない、と強調しました(Klein 1935:265)。自分が放置したり破壊したりすることで引き起こされた災難を償うことと意味する様々な空想を、彼女は列挙しました。例えば、愛する対象を悪い対象の攻撃から保護すること、愛する対象のバラバラになったかけらを集めて元に戻すこと、殺されてしまったものに命を取り戻すことなどです。Money -Kyrle (1977)は別のタイプについて示唆しました。それは「消極的償い」で、換言すれば繰り返ししていた悪いことをやめるというものです。これは非行をしていたり大変サディスティックな患者にとっては大変重要で、償いの重要な前段階であると私は確信しています。
 真の償いにおいては、それらの前の要素に還元できないかもしれない一定の帰結が損傷引き続いて起こります。強迫的な打ち消しのような機械論的変化は(化学的過程でさえも)過程が関与する場合に起きる変化とは異なります。損傷を認めた後に復旧した対象は、損傷を受ける以前の対象と同じものではなく、主体も同じものではないのです。損傷と罪悪感が真に認めませんられる場合に、償われた対象を再び取り入れることは、以前の、損傷していない対象を取り入れることとは全然違うのです。償われた対象は、復旧がどれほど完璧で正確なものであっても、損傷していないものとは根本的に異なります。美術品修復におけるフィレンツェ派とシエナ派の間には明らかに不一致が存在しているようです。それは、その作品が作られた当時のように正確に修復しようとするのと、前世紀、前々世紀の人々が親しんだであろう年を経て褪色する過程をも含めて修復しようとするのと、どちらがよいのだろうかという点についてです。傷んだフレスコ画がどれほど感動的で美しいかということに注目させられます。
 また、聖書の中で、神が高潔な人(righteous children )と持つ関係についての記述と罪人に対する寛大さについての記述がどれほど異なるかというのも興味深く思われます。Money -Kyrle (1987)は、懺悔し鎮めることを要求してくる迫害するタイプの良心あるいは神と同じより抑うつ的な神、つまり怒りよりは悲しみを持って語り、子どもたちを罰で脅すよりも道徳的な失敗を嘆いていると感じられる神の2つを区別しています。悲しみの満ちた対象が償われ修復される対象になるところで、真の変化と成長が起こる可能性が生じるのです。これは単純な2つのタイプの道徳性の問題ではなく、また単に2つが異なる対象関係のタイプの問題というわけでもありません。抑うつポジションはワーク・スルーするという意味における償いの理論は、それに引き続いて異なったメタ理論をもたらします。それは機械論よりも過程に基づき、あるものが様々に転換されても根本的に同一であるという観点よりも変化と成長の観点に基づく理論なのです。