うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

キューポラと、【私たちの印象では、どちらの能力も痕跡的にすぎなかった。】


明日は、東京に所用があるので、1日早く出て、川口市キューポラの写真を撮りに来ました。
 ネットや本でしか見たことのない物が見れ、村松鋳造の方が、色々話をして下さいました。是非、作品にさせて頂きたいと思っています。








 今日も早起きして、ギターを弾いて、本をマックで早番の親分の上がりを待つ間、沢山読めました。
下記は昨日読んだ箇所です。
「勝利感」「所有」「独占欲」という言葉で、自閉状態を巧く表現しているのには、驚きました。その言葉を自分たちの周りにいる方々に応用できれば、と思いました。







第3章 考察(続き)
〜このことを理解するために、私たちはこれらの言葉についてより厳格に考察しなくてはならない。「勝利感(triumph )」という言葉について考えてみると、それは誰かが、ライバルが所有していないことのみを気づいている、ある何かもしくは状態を所有していることを意味している。誰かが何かを達成して勝利感を持つかもしれない場合もあると考えられるが、その場合もライバルという考えを完全に排除するものではない。というのは、達成に伴う困難は、勝たなければならないライバルとして人のようなイメージを持たれがちであるからである。勝利感を経験するためには、ライバルという概念は、どれほどぼんやりしたものであれ、心の中に何らかの形で存在していなければならない。ティミーにとってはこの概念はなく彼自身の心の中で発達した対象、そして彼自身の心の中に何らかの形で存在するというよりは呼べる具象物として身体の中に存在していた可能性が高い。けれども、それは、疑いもなく彼の心に侵入し、私たちが見て取れる仕方で投影しうるほどに、そこで発達した。もっとも、その投影は、たいていは何らかの小さな動く対象や床の染みや印のなかへ、という奇妙な仕方であった。彼がこれらをBobby /baby と呼んだことは、彼が心的構成物を形成し、それをコンテインする能力もを持つ心が有しているということを示していたが、私たちの印象では、どちらの能力も痕跡的にすぎなかった。
 私たちが考察したい他の言葉は、「所有(possession )」である。「所有」とは、関係性があることを示しているわけではそして、それを意識していることは、自分というものに少なくとも部分的に気づいていること、そして所有が結び付いているという性質を持っており、その結びつきが自分と所有されている対象との間のものであることに気づいていることを意味している。そしてその対象が、自分や周辺の物と異なるということに何らかの形で気づいていることも意味する。これらは複雑な心的過程であり、構造化された心を必要としている。しかし、ティミーはこれを所持していないように思えた。
 このような心的過程は、ティミーにとって、かなり未発達な仕方で達成する以外は、まず達成できないものであった。私たちが彼に「独占欲(possessiveness )」という言葉を用いたのは、彼の行動を理解し、それに意味を授けるためであった。しかし、ほとんどの局面では、これは洗練されすぎた言葉であり、彼の治療の前半は確かにそうであった。おそらく彼は母親対象というよりも、ある種の感覚に貪欲で飢えていた。そのような対象の感覚の性質は、その心的対応物に漠然と結び付いているにすぎないようにしばしば見えた。というのは、彼は、おもちゃの兵隊、テーブルの角、磨かれた目次の断片の表面といった、それぞれに異なるものであっても、吸ったり舐めたり撫でたりできる限り、それらの外界対象に向かうことを何度も見てきたからである。それは、あたかも宇宙には無数の乳房、もっと正確に言えば、部分乳房(part-breasts)があるかのようであり、そこでは、一つの部分乳房が失われてもまったく同じ働きができる別の部分乳房を常に見つけることができるので、このことが可能であった。後の章で、ジョンもまた、現実検討において単一の感覚データに頼ることをみていく。
 ティミーが勝利感に満ちていた時ですら、ティミーの一部が母親対象の一部を所有していたにすぎないのであり、ごく一時的に汚染してくるライバルたちを排除していたに過ぎなかったのである。このような考えが、一体ティミーの心の中でどの程度何らかの意味のある仕方で分節化されていたのかについては述べることはできないし、ほとんど考えることもできない。どの心的過程もとても浅い性質を持つように思われ、その過程は主に一つの情動や感情に関わっているように思われた。彼にとっている所有とは、接触を邪魔されることがない、かなり喜びに満ちたものであり、ある種の情動的性質を持つ感覚的経験であった。そしてそれは、それ自体に関するもの以外の他のものに気づく余地のない状態であり、こうした感覚への気づきが消えていくか、変化するまでは、ライバルたちは排除されているというよりは存在していなかったのである。この瞬間、ライバルたちは突然出現し、喪失はそのせいだと経験される、もしくは、彼は落ち込み、巨大な抑うつ不安のうねりにアットウされ、それは躁的な行動につながっていくのである。