うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

だんごと、今日の日中と、デジャブと、【私が情緒的な内容を正しく捉えるかどうかだけの問題ではなく、正しいレベルの強さで彼に届くかどうかも重要なのだと私は確信するようになった。彼の力強いバイタリティは、十分に大きな声と答えを必要としていたのである。】


今日は事務の予定でしたが、日中が賑やかで、パソコンの調子も悪かったので、現場に入らせて頂きました。
おだんごを消費しないといけないので(笑)出勤前にお薄を作業場で頂きました。


歩ける方々は、浜松に行ったり、うたたね周辺を散歩したりしましたが、暑くて汗が流れました。

 今週は毎日1万歩以上歩きましたが、痩せません.....。

 額の急な依頼が(少し前に頂いていましたが、中々作業ができず.....)あり、重度のショートステイの方が帰宅された後、手の空いた職員で額の吊環と紐をつける作業を行いました。
 

 今日も早めに出て、ファミマで少し本を読ませて頂きましたが、今日の夕方、帰宅する前に実感したことが出ていたので(逆か?)、デジャブ?を経験しました....。しかし、デジャブは初めてではなく、母親が自死する前日に、死ぬ夢を見たり、大阪市内から堺市に引っ越しする前に、行ったことが無いはずの夢を何回も見ていて、引っ越ししたら同じ風景に出くわしたりしたことがありました。
 
 下記は、現場で真剣に支援をし、考えている方には凄くヒントになる言葉だと思われます。
何回も言ってしまいますが、この本は、本当に参考になる箇所が沢山出ていますので、早く読んでうたたねの書庫に持って行きたいと思っています。明日・明後日は、本が沢山読める状態になるので(いやでもw)読み終えるかも?です。読み終えたら、もっとまともな支援が出来るようになれるでしょうか?


『過剰反応的な患者には必ずしも、単なるだめは必要ないのだということを示唆するものである。高すぎてはいけないが、ある程度高いレベルの刺激が彼らには必要なのだろう。』


►異常な覚醒水準と取り入れ――正常域への修正
 〜もし私がイライラしなかったり、失望することなく、単に穏やかに「私をいらだたさせようとしているのね」などとコメントすれば、彼はもう数倍の努力をすることに私は気づいた。ときには、彼は私の声の端々に見せかけを感じ取っていたのかもしれない。また、もし私がサミュエルに、このあまりにも未消化でいらだちのこもった声の調子をやめてくれるように頼んだとしたら、彼は感情を害し、やはりもう数倍もの努力をするのだった。このようなときには、私がこのいやなパワーゲームに荷担していると彼が感じているのだろうと思われた。ここで私が強調したいのは、見せかけでも強制でもなく、純粋に友好的な私の側の反応であっても、それが軽すぎたり穏やかすぎると、彼は失望するのだということである。しかし、もしドラマチックに、大げさに、温かく、しかし純粋な怒りをもって、たとえば「ちょっとー!そんなつまらない手はやめてー!」というようなことを言ったとすると、彼は喝采を上げ、笑いと喜びでうなり、どういうわけかすばらしく元気づくのであった。苦しみはその場からなくなり、彼はしばしば常同行為をやめて、より社会的な行動を再開するのだった。もし彼が本当に理解され聞いてもらえたと感じるのならば――もし氷が溶けようとするなら――、それは、私が情緒的な内容を正しく捉えるかどうかだけの問題ではなく、正しいレベルの強さで彼に届くかどうかも重要なのだと私は確信するようになった。彼の力強いバイタリティは、十分に大きな声と答えを必要としていたのである。 このような治療上の問題について、グリーンスパン(Greenspan,S.I.)は非常に興味深いことを述べている。彼は、(健常)乳幼児の統制“要因”と、そうでない子どもの統制“障害”を区別することが重要であると指摘する。前者は、たとえば(光や音に対する)感覚的過剰反応のように、素因/成熟要因として捉えうる。これらは、ほかの人に注意を払うことが困難であるというような統制障害、あるいは行動や思考の困難などを導くかもしれないし、導かないかもしれない。セラピストは、このような障害をもつ患者が、適度なレベルの感覚(そしてそれがゆえに適度の感情体験)を達成するのを助けようとするべきであると、彼は示唆している。そうすれば、他者との間に“より顕著で意味のある関係を築くことができる”のである。彼はまた、臨床家はより“反応を強いる人間環境”を創造すること、たとえば、「臨床家は患者をより豊かな言語的やりとりができる関係に巻き込むために、声を大きくしたり、感情表現をより強くする必要があるかもしれない」とも述べている。〜
過剰反応的な患者には必ずしも、単なるだめは必要ないのだということを示唆するものである。高すぎてはいけないが、ある程度高いレベルの刺激が彼らには必要なのだろう。