有山さんと木村さんと、認定率下がれば財政支援=介護費抑制で自治体に―厚労省
先日、親分が木村充揮さんが観たいと言っていたので、自分が観たかった有山じゅんじさんと一緒にやっているライブを探していたら、今池でありました。(後は藤山直美だそうです。自分はおやじに連れられて藤山寛美をよく見に行きました)
まあ、主役は金子まりさんでしたが、3日連続であるので、余力を残されていたのか?遠慮しいなのか?(周りに絶えず気配りをされていて、若い、ご本人たちよりは(笑)出演者さんにも、何度も名前を口にして、拍手を求めておられました)木村さんに全部持って行かれた感もありました(笑)。キャラがキャラなので、木村さんは目立ってしまいますね(笑)
木村さんと有山さんを堪能してきましたが、親分は夜勤明け(笑)でスタンド。おっちゃんはバーボンも飲めず(車だったので......)素面で周囲の酔っぱらったおじさん、おばさん達が目を閉じて、音楽に合わせて体を揺らしているのを、羨望のまなざしで、観ていました(笑)
まあ、体が空いていて見たいライブがその日にというのも、奇跡的な感じです(笑)
めちゃくちゃ久し振りに木村さんを見せて頂いたにもかかわらず、『木村さん!』と楽屋に入る時に声を掛けてしまい、申し訳ありませんでした。優しく微笑んでくれました。
『か・き・く・け・こ』は自分が発生困難な音ですが、懐かしさから自然と声が出ていました(笑)
木村さんのギターはオルタネートがシャキッとしていてかっこよかったですし、有山さんのギターは控えめでしたが、デルタを基調にフレディ・キングがスイートホームシカゴのソロでよく使うフレーズ(上手く説明できませんが、彼の専売特許ではありませんね。自分が最初にそのフレーズをコピーしたのが、彼でしたので。コードがⅣに変わった時や、ターンアラウンドの前によく使う?)が時々出ていて、渋さの中に明るさもほど良くあって、こちらまで余裕が生まれました。アルコールが入っていない分(笑)沢山勉強させて頂きました。6thコード・9thコード・m7thコードが自分の中でのブルースコードなので、十二分にブルースを堪能できました。
次回はいつ行けるでしょうか?
また、ゲリラ的になるのでしょうね(笑)
今回はなんとか日付が変わる直前に帰宅できました(笑)
紅花紅子さんのブログhttp://ameblo.jp/super-fly1/にこんな文章が出ていました。
<シンガーの誕生>
さて、稀代のシンガーといわれる木村だが、元々シンガー志望だったわけではない。高校時代は、見よう見真似で始めたブルースらしきものを伴奏をしていただけだった。リードギターは内田、歌も内田だった。木村は歌好きではあったが、人前で歌うことなど全く考えていなかった。
木村の音楽歴は古い。小学生時代に妹と一緒にピアノを習い、1年後にオルガン、中学からはクラシックギターを習っていたが、60年代半ばの習い事といえば、そろばんか、習字、学習塾などはまだ一般的ではなかった。そんな中、絵画教室や音楽教室に通わせる家庭はかなり特別な存在だった。
当時、木村の実家は鉄工所を経営していたが、鉄工所とは名ばかりの家族経営の町工場で、しかも木村は、7人兄弟のちょうど真ん中、上に姉、2人の兄、下に2人の妹と弟がいた。生活だけでも大変だったろうが、この親からも忘れられやすい存在の子供が音楽の英才教育を受けたのは少し事情がある。
学校でよくケンカしてきた兄や活発な妹たちに比べ、どちらかといえば目立たず、おとなしいかった木村は、暇さえあれば絵ばかり描いているような子供だった。両親はそんな木村を見守ってきたが、少し言葉が遅い息子に吃音癖があると知った時の気持ちはいかばかりだったろう。
おそらく気づいてやれなかった自分たちを責めたのではないだろうか。外で元気に遊んでいた子供がしだいに家にいることが多くなり、友達をやり過ごしてから、学校に行く。親には言わないが、心ない言葉を投げかけられたこともあったろう、また、真似をされることもあったろう。吃音のせいで内向的になり、絵ばかり描いている、やせっぽちで無口の息子になんとか自信をつけさせたいと思ったに違いない。こうして両親は、彼に好きなことを選ばせ、音楽を習わせた。少しでも自信をつけて欲しかったからだ。
高校に入り、ブルースにめぐり合っても自分が歌うことなど夢にも思っていなかった木村は、極めて恥ずかしがり屋だった。だが、内田に薦められ、初めて英語の歌を歌ったとき、心の中で何かが音をたてた。言おうとしてもなかなか言葉にできなかったものが歌を通じてほとばしる、そんな感覚を身をもって体験した瞬間だった。
吃音という『負の遺産』をエネルギーに昇華した木村の歌が聴く者の心を打つのは、思いを伝えようという気持ちが他の者より格段に深いからではないだろうか。シンガー木村の誕生である。これ以降、文字通り、歌は木村の生きる糧となる。
木村を中心に集まった憂歌団は、内田をはじめ、島田も花岡もこの木村という人間を何とかしてやりたい気持ちがあったからだろう。そうでなければ、あれほど長い間続けていけるはずがない。誰もが何とかしたくなる男、それが木村だった。
ステージ上で見せる木村のおどけた表情や意味不明な言動は、吃音を隠す為と照れの為せる業である。一旦、ステージを降りれば、ほとんど口を利かない無口な男に戻り、日本版スリーピー・ジョン・エステスと呼ばれるくらい気配を消し、インタビューなどに答えるのは専ら内田か、花岡だった。
先述したとおり木村の実家は鉄工所で、まっとうに生きることを良しとする家庭だった。そのため、音楽のようなヤクザな稼業を認めるわけにはいかなかった。音楽に当てる時間は土日だけ、平日は朝から夕方まで勤務することを条件に音楽活動が許されていた。しかし、77年の夏のライブ活動が極端に多かったため、工場勤務をやめたのだろうと思っていたが、完全にやめたのは1981年のことという。おそらく妹や弟が卒業し、社会人になったのを機にやめたのだろう。
市役所の健康課の方が、こんなものを持って来てくださいました。
田原弁のラジオ体操のCD!これは使えますね!
『たはら健康マイレージ』のパンフレット!
4週間健康づくりに取り組んだら、色々な特典があるもよう!
自分は自家用車を持たないので、ほかの人と比べたら特典をもらえる権利がある(笑)かも。頑張ってみようかな?田原市在住でなくても、職場や学校が田原市内にあるなら、誰でも大丈夫との事でした。
最後は『田原市がん検診受診率向上推進サポーター企業』登録募集の案内!
自分ががん検診に行ったことがないので、考えないといけませんね!
職員会議の時に、皆さんにも協力して頂こうと考えています。
こちらは、田原市在住の方のみです。
下記のニュースが出ていましたので、そういうお達しが出たのでしょうね。
『認定率下がれば財政支援=介護費抑制で自治体に―厚労省』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160917-00000040-jij-pol
夜勤明けですが、夕方は湖西市まで送迎があります。
小学生のかわいい女の子たちですので、賑やかでしょうね!
まあ、先程帰宅したばかりですが(笑)