うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

縁石と、逆転移のさまざまな側面


 先程、7年前に作っていた縁石の作品を引っ張り出して(笑)完成させようと眺めていましたが(このままだと、平面的すぎるので)、7年前の感覚が今にはないので、とりあえず、泥や土が付着しているように仕上げます。
 全長3メートルなので、時間がかかりそう(笑)

 昨夜、夜勤時の小休憩に読んでいた箇所のアップです。
現場の職員も、本当は身につけておかないといけないことですね。


逆転移のさまざまな側面
 ここで私がおこなっているように、患者と治療者との間にある相互交流的な対応性を通してなし遂げられる水準のコミュニケーションがあると私たちが仮定するなら、さまざまな種類の患者への反応を識別していく方法があることが絶対必要でしょう。
 これについてはたくさんのことが書かれています。けれども、私は逆転移についての文献の総説的展望をするつもりはありません。そのことは他の人たちによってなされています。逆転移について書かれているさまざまな局面のいくらか、なかでも、上の例を照らし出すそれらの面を概説するだけにしたいと思います。

(1)逆転移は、「彼(医師)の無意識の感情への患者の影響の結果」(Freud1910:145)と見なせますし、それについては、分析家は、解決するのに自己分析を用いるか、さらに分析の援助を求めるかをすべきです。

(2)M.バリント(1933:Balint 1952:第12章)とA.ライヒ(1951)は同じように、どちらも、分析家が患者へのある転移反応を体験しているときがあるとの事実を強調しました。このことは、分析家とか精神療法家の早期の人生でのある重要なあいだがらのある未解決な局面を患者が表象するようになってくると起こりえます。その治療者のさらなる自己分析を通してそれが解決されるまで、このことがその患者との治療関係を脅かすでしょう。

(3)啓発的な論文「逆転移のなかの憎しみHate in the Conutertransference」でウィニコットは、真に客観的な逆転移を語っています。たとえば、「あらゆる患者の分析家にとってのおもな任務は、患者が持ち込むすべてのものに客観性を保つことであるし、そして、このことのひとつの特別なケースは、その患者を客観的に憎めるようになることが治療者に必要なことである」(Winnicott 1958:196)。そして、のちに、彼は付け加えています。「分析家の憎しみは一般に潜在的であるし、そして、たやすくそうしたふうに保たれる。精神病者の分析では、分析家は、自分の憎しみを潜在的に保とうとする大きな重圧のもとにあるし、その憎しみに徹底的に気づくことでのみ、彼はそれを行うことができる。ある分析のある段階では、分析家の憎しみは患者によって実際に探し求められるし、そして、そこで必要とされていることは、客観的な憎しみであるということを私は付け加えておきたい。もし、患者が客観的か正当な憎しみを探し求めるなら、彼がそれにたどりつけるにちがいない。さもなければ、彼は客観的な愛情にたどりつけるとは感じられない」(Winnicott 1958:199)。

(4)ポーラ・ハイマンPaula Heimannは逆転移の「逆counter-」部分を強調しましたが、これを患者の転移への分析家の対応と見ました。彼女は力説しました。「分析状況のなかでの患者への分析家の情緒反応は、患者の無意識への探求のひとつの機器である」(Heimann 1950:81)。彼女は続けています。
「この自由に働いている注意とともに、分析家には、患者の情緒の動きや無意識の空想を追っていくために、自由に湧き上がる敏感な情緒的な感受性が必要であることを私は示唆しておきたい。私たちの基本仮説は、分析家の無意識が患者のそれを理解することである。深い水準でこのラポールは、「逆転移」のなかで、冠者への反応として分析家がきづく感情という形をとって表面に出てくる。これが、患者の声が彼に届く最も力動的なみちすじである」(Heimann 1950:82)。

(5)パール・キングPearl Kingは論文「患者のコミュニケーションへの分析家の情緒反応Affective Response of the Patient’s Communications」で、逆転移の混乱しがちなさまざまな使用法をいときほぐしていこうと試みている。「病理現象としての逆転移と、患者のコミュニケーションへの分析家の情緒反応、とりわけ、患者の転移がなすさまざまな表現形態への情緒反応、とを識別しておくことは、このように、もっとも重要である」(King 1978:330)。

なにが誰に属しているのか

 それぞれのさまざまな局面においても、ほとんどの著者が同意していることは、それが患者の人格、患者の転移、患者の有りようのどれによるものであっても、治療者は患者の彼らへのインパクトに影響されるとのことです。しばしば、このことへの治療者の反応は、治療者とだけつながりがあるなにかを示していましょう。必ずしも、いつも、逆転移であるとかそうではないとか、病理的であるとかそうではないとか、頑なに決められるわけではありません。
 患者と治療者との間の相互交流性コミュニケーションの存在がひとたび受け入れられるなら、ただちに、一連の技法上の問題が浮かび上がってきます。私はここではその問いについての問題に打ち込みたいと思います。「誰の病理がそのとき働いていたのか、患者のそれか、治療者のそれか?そして、私たちがどのようにしてそれぞれを区別できるのか?」
 個人分析のあとでさえ、どんな治療者も、といわけ、重圧のもとにあるとき、投影や否認という防衛をいまだ使いやすいのです。そうしたことで、第一歩としては、どんな治療的相互交流のなかでも、おのれの感情を個人的な逆転移としてモニターしておくことがまずもって必要です。それが患者に関することから引き起こされたことであろうとも、治療者は第一に、彼自身に属していものを受け入れなければなりません。次のスッテプは、そのように治療者が感じたり、対応したりするように患者が促しているかどうか、そして、もし、そうなら、どのようにしてなのか、そして、どんな無意識の目的なのか、を測り定めることです。