うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

イエローレシートと、甘夏と、【討議】『臨床哲学の知』を読むと、尾崎豊


 今日は11日でイエローレシートの日だと、夕方まりちゃんから電話があり、休みでしたが(笑)ジャスコに飛んでいきました(笑)
 お客さんがあまりいませんでしたが、おられたお客さんは好意的で沢山入れて下さいました。ありがとうございました!
 まりちゃんが一番頑張っていました!おっちゃんは久しぶりで、声の出し方が分からず、まりちゃんの真似をしていたら思い出し、頑張って声を出しました。
 晴君は売り場のお菓子が気になって仕方がない様子でしたが(笑)頑張って我慢されていました。


 今日、大家さんから甘夏を沢山頂き、幸せな気分です!
柑橘系は全て大好きです。


 クライン入門も半分読みおえましたが、事務仕事で疲れた頭には少しハードだったので、『木村敏中井久夫』を読んでみましたら、凄く良い本でした。木村敏先生の本は一冊だけ読ませて頂きましたが、難解すぎてもういいかと思っていましたが、『臨床哲学の知』は読みたいと思いました。

 アップさせて頂きたい箇所だらけでしたが、少し長くなりましたが、断腸の思いで(笑)端折らせて頂きました。
 勉強になりました。

木村敏中井久夫
【特集1】木村敏中井久夫
Ⅰ 木村敏の哲学と臨床
【討議】『臨床哲学の知』を読む(語り下ろし)

「述語的自己」について
〜ではまず「主語的自己」と「述語的自己」ですが、これも明確に定義がなされているわけではありません。読んでみて一応わかるのは、主語的自己は「固定的である」「同一性である」「リアリティである」と言われ、それに対して、述語的自己は「アクチュアリティ」を伴った「活動的な自己」であって、それは「疲れている」「医者である」というような述語として表現されるものだ、と言われています。これをどう受け取るかです。
 この「述語的」ということばがしばしば「場所」に置き換えられていることがヒントになりそうです。つまり、述語的自己とは、いろいろなことが起こっている場所として「私」を見る、ということなのでしょう。
〜頭で思い込んでいる「私」ということではなくて、それよりも大きい私ですね。さまざまな物が見えたり聞こえたり肌に感じられたりするし、質感や気分も伴っている。そのように、さまざまなことが生起している場所として「自分」というものを見よう。それが「述語的自己」ということだと思います。そこには、自覚的な意識の動きだけでなく、ぼんやりわかっている、とか、なんとなく感じられていることも含まれてきます。〜

「主語的自己」について
〜つまり、人は絶えず動いている「場所としての私」として生きながらも、同時に、自分は同じ自分だと感じている、ということです。そしてこの同じ自分を言葉でもって「物語」として作っている。「これまで〜ふうに生きてきた私は、これからは・・・ということをしていきたい、だからいまーいうことをしている」というような
「自分の物語」を持っている。これは「同一な私」を確定するための重要な契機です。〜

「述語的自己」を生きることが、なぜ難しくなったか
〜今日の学問においてアクチュアリティを扱おうとしないこと、当然その中で学生もあつかえない、そうした問題が根深く存在している気がするのです。現場もそうですね。
 現場の人たちは、すぐに問題解決を目指そうとする。解答を欲しがる。では具体的にどうしたらいいんですか、といったハウツーをすぐに求めるのだけれど、問題として取り上げていることは、けっして患者だけの世界で起こっていることではない。現場の職員とともにある世界の中で生じている問題なんです。そこでどんなことが起こっているのか、その生々しい部分を感じ取ることがとても大切なんです。それはアクチュアリティそのものです。しかし、アクチュアリティの世界は言葉にならない。容易にそれをことばで表現することは困難です。しかし、そのような体験をずっと感じとりながら、それを持ち続けながら、何かがあったときにパッと言葉として出す、そういうことがとても大切だと思うのですね。それは現場の人たちに限らずだれにとっても難しいことです。
いま、認知行動療法が注目されているように、すぐに結果を求める時代的要請が強いから余計にそうなっていくのだと思うけれど、学生の論文を見ているとそういう傾向はすごいですよ。そのあたりのところが木村敏の主張のもっとも重要なところだと思うんだけどね。〜
〜これはあるところに書いたことですが、25歳の女性の患者さんが、職場で対人関係がぎこちなくなっていき、相手の言葉が把握できなくなった。たぶん多くの医者は、アスペルガー障碍だと診断するのだろうけど、その人の話をずっと聞いていくと、幼児期から、自分の考えが背中から漏れる感じがあって、怖くてしょうがなかったというのです。それからいろいろなことがあって、自分がどうしたかというと、人前で感情を出さないように振る舞うことでしか、安定感を得られなかったと言うのですね。
 生の感情に浸るような体験は不確かで、頼るところのない、とても怖い世界なんだけど、それを、本来ならば母親が安心を与え、言葉にしていくことで共同性を帯びた関係の獲得につながっていくわけですね。それがとても弱くなっているのです。内海さんは、家庭の力が弱くなっていると言われたけれども、それは家庭の力だけではなくて、現場もそうなっているのではないでしょうか。子育てにかかわる現場で皆さんは働いていらっしゃるわけですが、現場で行われていることが、かなり危ういことになっている気がするのです。そこはすごく考えないといけないところではないかと、私は思っているんですけれどね。〜

自己、言葉、時間

〜ぼくはこの本を読んで、アクチュアリティの話には、いくつかのことで触発されることがあり、面白かったのです。一つは、支援についての、見え方が変わったなと思えるところがあったことです。それからもう一つは、自分自身の昔の体験に触れてくるところがあったことです。以前、そういえるかどうかは分かりませんが、離人症的な体験をした時期があり、親と話していても普通の感覚ではまったくなくて、自分はこのままおかしくなるのではないかと思うような体験でした。鮮明に覚えていることは、ふつうに生活している時の自然な感覚がなくなって、自分だけが周囲から切り離されたような感覚があり、呼吸をするにしても意識的にしないと出来ないのです。医者にも行き、特に病名が付けられたわけでもなかったですが、その感覚が何年か残っていて、自分ではそうした感覚を何とか直したいと思っていました。
 アクチュアリティは自分自身があるまとまった意味をもつものとしてあることで、そのまとまった意味が危うくなったという体験だったのです。言葉ではなく、身体を動かすことで、世界とつながる感覚が回復するところがあり、プールに入ったり演劇を始めたりしました。これが、自分を変えるきっかけになったと思います。高校生から大学の始めの頃の時期ですね。人が生きるということはアクチュアリティを生きることだとか、「我々のアクチュアリティ」という語がありましたが、そういうアクチュアリティが失われるような自分の体験を思い起こし、直接触れてくるところのある本でした。
 もう一つ、自分が関わっている施設に通う利用者さんについて了解する視点が得られたところがありました。その施設では、絵画や陶芸などを行い、アート的な活動を支援しています。あるいは特別に何かを作らなくても、その人のいろんな表現をアートにすることをやろうとしています。何というか、通ってきて、ここでやることは何でもいい、こちらがそれをひとつのアートとして取り上げ、支援していこうということです。
 10代の女性で知的障害の人がいるのですが、自分が面白いことには興味を示すが、つまらないことは寝てしまう。床に寝ころんでも気持ちよさそうにしている。こちらは寝ていても無理に起こそうとはせず、好きなものを用意するようにしている。そうやって過ごしているわけですが、彼女の中で起こっている意味、この本でいえばアクチュアリティを共有しようということが大事だろう、とスタッフと話しているところです。どうなるかはこれからですが、この本を読んで、こちらの構えが変わったところです。〜 




 日曜日の名残りか?夜、無性にギターが弾きたくなり、ギターを持つとなぜか?尾崎豊の『I Love You』のメロディが頭の中で鳴ったので、適当にアレンジしたら直ぐにまとまったので(簡単なアレンジですが)いつもの如く、コードの中に入れて弾きました。メロディの美しさに10回くらい弾いてしまいました(笑)