うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のうたたねと、「介護離職」を考える前に、知っておきたい6つの支援制度と、上半期「介護事業者」の倒産 過去最多と、東京都 新たに224人の感染確認 過去最多 新型コロナと、【それは、可視の世界の現実(クロノス)と不可視の世界の現実(カイロス)をともに包摂して「いかに生きるのか」のテーマに取り組むという意味での発達論である。】

 

f:id:ka-gu:20200709202509j:plain

 毎日、豪雨ですね……。今日も早めに出勤して車で本を読んでいたら、凄い勢いで雨が降って来ました!出勤時間には、小雨でしたが最近降るとなると豪雨ですね。これ以上被害は勘弁して欲しいです!

f:id:ka-gu:20200709181423j:plain

 お茶会もしましたし、換気がてらすろーじゃむにも行って来ました。

f:id:ka-gu:20200709202617j:plain

 男子が帰宅したら、プロレスとか始まり(笑)、急に賑やかになりました!

f:id:ka-gu:20200709202705j:plainf:id:ka-gu:20200709202643j:plain


 女子が笑って見ていました(笑)。いつものうたたねですが、日中の事業所とは関係が逆になるというのも、不思議ですね(笑)。
 

 自分が大学院に入学出来たのは2つ要因があると思っています。1つは精神分析関連の本を沢山読んで、それに基づき支援方法を構築していることを認めて頂いたことと、もう1つは、小論文で介護離職をされた方の、収入と職を作る方法かな?と思っています。下記はその1つに関連した記事です。1人で抱え込むのは、本当に大変なことだし、無理をすることになるので先が見えてしまいます。自分の場合は介護離職された方々が集まって施設を作り(専門家も関わって)、運営、仕事することによって収入と職を創出するという内容です。簡単なことではありませんが、行政等も関心を持ってそれなりの援助をして頂ければ、何とかなりそうな気もします。それにはきちんとした計画とマネジメントが必要なので、MBAを学んでいるのです。

 介護職も、いくらでもアカデミックに出来るし、障害者の方々が働くといったら清掃業がまず選択肢に上がって来ますが、清掃業だっていくらでもアカデミックにも出来るし、そのシステムが分かればオーナーにもなれ、それで生んだ利益で本当にしたい事業も出来るのに、大学でたというプライドだけでこの状況下、仕事がなければ人が嫌がることをした方が、近道のような気がしますが、それは自分が学歴も地位も名誉もないし、貧困家庭だったからそう思えるのでしょうか?

最終的には自分の目標が達成出来れば良いのでは?と思いますが、人それぞれの考えがあるので、押し付ける気は全くありませんので、誤解なきようお願い致します。前横浜副市長の荒木田さんが、学校の先生になろうという方が減って来て、質も落ちていることを心配され、井坂先生に学校ものの先生になりたいと思えるようなドラマや映画を作って欲しいと言われていましたが、福祉のドラマや映画も作って頂きたいですね。  ますます通学が遠くなりましたね........。

www3.nhk.or.jp

 

 今日も皆藤先生の言葉で1日を終えます。佐々木正美先生が言われていた、問題行動は2次障害というのを思い出しました。結局はマネジメントで言う顧客第一という考え方がないというだけではないでしょうか? 仕事とはニーズに応えることですが、寄り添い過ぎもいけません。大文字の他人が親で、小文字の他人が赤の他人ならば中文字の他人は支援者と考え、それに相応しい接し方を考えていければきちんとした支援方法が構築できると思われます。

 れまでの発達心理学は、クロノスとしての時間を基軸にする傾向が強すぎたのではないか。このことは、発達心理学の知見を用いるわれわれの側の問題であったとも言えよう。

 線的発達段階論が通常の人間の発達として捉えられたとき、「いかに生きるのか」という次元での人間の変容はクロノスに支配されたものとなり、内的成熟の時間としてのカイロスがないがしろにされてきたと考えられる。

 れは、個性を尊重する方向性ではなく排除の構造を産む方向性をもっている。筆者は、「いかに生きるのか」をテーマとして人間にかかわるとき、直線的発達段階論ではなく、その当人が抱えている外的・内的テーマ(それを障害なり症状と呼ぶことが多いが)が、当人をめぐる現実との関連のなかで、いかに変容していくのかという、テーマを体験として生きる発達論的見方が必要ではないかと考える。

 述したソウル・メイキングはその考え方の一つということができる。このような発達論的見方を「包摂的発達論」と呼ぶことにしたい。それは、可視の世界の現実(クロノス)と不可視の世界の現実(カイロス)をともに包摂して「いかに生きるのか」のテーマに取り組むという意味での発達論である。そして、そのためにはまず、われわれの側の人間にたいする見方が問題にされねばならないと筆者は考える。