うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグとバンドクラブと、【抑うつ態勢に到達したときの対象関係の主な特徴は対象が全体対象と感じられることである。】


今日は、アトリエ・カーグとバンドクラブの日でした!
カーグでは、予告通り、人形を描いて頂きました。

 直樹君はこちらの人形を選ばれ、素敵に描かれていました!

 ゆうちゃんは、小さな現代版のこけしを沢山描いていました!

 ゆうこちゃんは、フランス人形?を大きな画面に!


 おかもっちゃんは貫禄でした。

 マツオさんは、そういえば普段から人形でした。ノベルティーグッズに選ばれていましたね!

 りえちゃんは初参加!
今日は、何故か?忙しくカーグの現場にあまりいることができなかったので、きちんと写せなくて申し訳ありませんでした。
 皆さん落ち着いて取り組まれていました!




番外編(笑)

 たっくんは、バス停の時刻表が気になり、暫く見ていました!

 おかもっちゃんのTシャツが、あまりにも素敵だったので、写させて頂きました。
どこで売っているのでしょうか?おかもっちゃんに聞いても分かりませんでした.....。






 バンドクラブは、新曲を中心にやったので、中々うまくは行きませんでしたが、もう少し頑張れば唄えそうですね!
皆さんの表情が良いのが、一番嬉しい事です!
 今日もバンドは熱かったです!
最近、電圧が下がるのか?アンプのゲインやエフェクターの歪みが全然効かなくて生音で、ロックな曲もやっているので、ちょっと変な感じがしています。
 違うコンセントで、ドラム・ミキサー・ギターアンプエフェクターエフェクターは電池を入れて見ます)を試さないといけませんね!





 いつも、カーグの日は早朝に車を置きに行くので、ついでに早番にも入ろうと思いましたが、6時半に早番さんが入られたので、おっちゃんは7時からにしましたので、30分だけ本を読ませて頂きました。下記は、その時に読んでいた箇所です。
 とても大切な論文です。どこをどう切り取って良いのか?全て心の中にまで入って来てしまいます.....。



自我の発達や自我の対象との関係の変化はゆっくりしたものである。私が類象徴と呼んでいる早期の象徴群が抑うつ態勢の間に完全な象徴となっていく変化もまたゆるやかである。ここでは私は妄想-分裂態勢での自我の関係性と、抑うつ態勢での自我の関係性との間にはっきりとした区別をつけたし、同様に類自我と抑うつの間やその後につくり上げられる象徴との間の区分をつけたが無論それらは分りやすさのためにそうしている。 抑うつ態勢に到達したときの対象関係の主な特徴は対象が全体対象と感じられることである。このことに関連して、自我と対象が分かれていて別のものであることが十分に意識される。同時に、対象はまとまったひとつのものと認知されるので、アンビバレンスが十分に体験される。この時期です自我はそのアンビバレンスに苦闘している。対象との関係は、罪業感、喪失の恐れからまたは喪失と悲哀の実際の体験、対象を再創造しようとする渇望によって特徴づけられる。それと同時に、対象を修復し、再創造しようとすることや対象を内部に保持しようとすることへの渇望に伴って、投影よりもとり入れの過程が際立ったものになってくる。 正常な発達では、喪失、回復、再創造という体験が繰り返された後には、自我のなかに確実によい対象が確立される。自我は発達し、統合するので、対象との関連でのこれらの変化は自我の現実感覚に根本的に影響する。アンビバレンスは自覚が増し、投影の程度が和らぎ、自己と対象との間の分化が進んでくることによって、内的にも外的にも現実感覚が成長する。内的世界は外界から分化され始める。より早期の段階に特徴である万能的思索は、より現実的な思索に徐々に道を譲っていく。同時に同じ過程の一部分として一次本能目標の修正がある。より早期には、もし悪いものと感じられたなら徹底的に壊滅することがその狙いだった。よい対象と悪い対象がひとつのものであることを認識するとともに、これらの本能の目標はどちらも徐々に修正されていく。自我は対象を攻撃性や所有欲から救い出すことにますます関心を向ける。そして、このことは攻撃性とリビドー両方の直接的な本能目標をいくらか抑止することを意味している。  この状況は象徴群をつくり上げるには強力な刺激であり、象徴群はその性格を変える新しい機能を獲得する。象徴には攻撃性をオリジナルな対象から置き換えることが求められ、そうすることで罪業感や喪失した恐怖を和らげねばならないで置き換えの狙いは対象を救うことであり、その対象との間で体験される罪業感はオリジナルな対象に向けた攻撃によるそれよりはるかに軽いものである。このように、ここでは象徴はオリジナルな対象に等しいものではない。オリジナルな対象を修復し、再創造し、奪回し再び所有する手だてとしても象徴群は内的世界においらつくられる。しかし?現実感覚が増してくるにつれて、それらは自我によってつくられたと感覚られそれゆえにオリジナルな対象とは決して等しいものとは考えられない。 フロイト(1923)は本能目標の修正が昇華の基本条件であると主張した。私の考えでは、抑うつ態勢のなかで象徴群をつくり上げるには、オリジナルな対象との間での直接の本能目標はいくらか制止されることが必要とされるし、それによって象徴群は外界に象徴的な意味を授けながら外界のなかに再投影されうる。
 個人のなかでの喪失を体験する能力と対象を再創造したい願望は、象徴を使うことについての無意識的な自由をその個人に与える。そして類象徴とは違い、象徴は主体がつくったものと認められるので、主体は自由に象徴を使うことができる。  外界での代理物が象徴として使われるとき、オリジナルな対象よりも自由に使われよう。なぜなら、それはオリジナルな対象との区別がついているので、その象徴もそれ自体が対象であると認められる。オリジナルな対象との混同がないことは新しい対象の象徴として使われる特徴をぼやけさせるので、その外界での代理物自体のもつ特質が認識され尊重され始め使われる。